「今日という1日は、『もっと生きたい』と思いながら死んでいった人たちの明日」

自殺する人は必ずと言っていいほど、靴などの履物を残す。
現代のニュースだけでなく、古くは源平の争乱を描いた鎌倉初期の文献以降、繰り返し描写されており、
「履物が残されている」ということがあたかもその主の自殺の証拠であるかのように、語られることが多い。

昔「日本民俗学会」でそんな研究発表を聞いて感銘を受けたことがありました。

そう意識してみると、確かに自殺報道では今でも時折、「履物を残」している事例を目にすることがあります。
まるでそれが自殺の「作法」であるかのように。しかも、教わったわけでもないのに。

案の定というか、今年は変則的に、自殺者が増加しています。

「緊急事態宣言」で外出自粛が要請された3月~6月は、自殺者数は前年比を下回っていましたが、
解除以降7月~9月は前年比を10%~40%も上回っています。

しかも、比率としては男性よりも女性が高く、また小中学生などの子どもや若年層が高まっているのです。
この3か月だけに限定してみても5477人。
コロナでの日本の死亡者総数1670人(10月17日現在)と比べてもはるかに多い。

もちろん、この期間の自殺者の原因を、コロナ禍における「自粛」圧力に単純化するわけにはいかないでしょうが、
昨年度までとは明らかに異質な数字の推移から、自粛圧力に何らかの要因がある事例がほとんどであることは、ほぼ間違いないでしょう。

この明確な数字が出ているのに前政権への責任を追求する動きは全くなく、

パンケーキ政権は「戦争法」成立を批判した学者を拒否したり、
日航機「撃墜」疑惑の「主犯」疑惑がある人物の合同葬儀に弔意を示すよう国立大学に圧力をかけたりと、

もう怒り疲れてしまうほど気ちがいじみた現実に世の中が支配されてしまっています。

消費税が3%から5%に引き上げられた翌年の1988年に、自殺者数が2万4千人から約3万3千人へと跳ね上がった。

これも偶然ではないはずなのに検証も総括もされていません。

今は自殺者数が2万人に下がったと統計上は示され、政権は自画自賛していますが、
それに比例して「変死者数」が増加している。
遺書などがない場合は「自殺」ではなく「変死」とみなすようになったらしいので、
実情は3万人時代と変わりないとみるべきでしょう。

履物を残すのは、残された我々との精算されないつながりを構築する「死者の書(メッセージ)」ではないか。

「今日という1日は、『もっと生きたい』と思いながら死んでいった人たちの明日」