秋水時に至り、百川は河に灌(そそ)ぐ。
涇流(けいりゅう)の大、両涘渚崖(りょうししょがい)の間、牛馬を弁ぜず。
是に於いてか、河伯、欣然として自ら喜び、天下の美を以て尽々(ことごと)く己に在りと為す。
流れに順いて東行し、北海に至りて、東面して視れば、水端を見ず。
是に於いてか、河伯、始めて其の面目を旋(めぐ)らし、望洋として若(じゃく)に向かいて歎じて曰く、
野語にこれ有り、道を聞くこと百にして以て己に若く者莫(な)しと為すと曰う者は、
我の謂いなり。
今や、我は子の窮め難きを睹(み)たり。
我子の門に至るに非ざれば、則ち殆(あやう)し。
【大体の意味内容】
秋雨の満ちる時に至って、諸々の川水が黄河に灌(そそ)ぎこんだ。
水の流れは広々として、両岸や中州を見渡してもすべてが水に浸されて、牛や馬の区別もつかない。
そこで、黄河の神である河伯(かはく)はすっかり得意になって喜び、天下の美しいものは全て我が身に集まっていると考えた。
流れに従って東へと下り、ついに北海までやってきたが、
そこで目の前に広がる世界を見た。
それは、水の切れ目が見えぬほどの、広大無辺な大海であった。
そこで河伯は茫然として、北海の神である若(じゃく)に向かって、嘆息しながら話しかけた。
「世間のことわざに『百ほどの道理を聞きかじると、もう自分に勝(まさ)るものはないと思い上がる』というのがあるが、これはまさに私の事でした。
今や私は、あなたの果てしない大きさをこの目で見て、上には上があることがわかりました。
私は、あなたのところへやってこなかったとしたら、甚(はなは)だ無知蒙昧(むちもうまい)のままであったはずで、危険なことでした。」
【お話】
このあとすぐに、北海の神である若(じゃく)が「井魚(せいぎょ)は以(もっ)て海を語るべからずとは、虚(きょ)に拘(とら)わるればなり(井戸の中にいる魚に海のことを話しても無駄なのは、その魚が狭い自分の住処(すみか)にとらわれているからだ)。」等々と答えます。
この部分が後々、「魚」が「蛙(かえる)」に変えられたりしながら、現在に有名な「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」ということわざになりました。
今回登場した河伯というキャラクターは、黄河という世界でも指折りの大河の神ですが、
そんな自分よりもさらに広大な海を知って目を開かれていく物語となっています。
「井の中の蛙」となってしまう危機から脱して、見識を広めてゆく。
今現在でも十分高いレベルでありながら、そんな自分をつまらないものと自覚してさらなる偉大なものを素直に求めてゆく過程が大事なのでしょう。
将棋の藤井聡太さん(十七)が、最年少の「タイトルホルダー」になったという記事が大きく取り上げられました。
私はまだ知らなかった数年前にたまたまテレビで
小学校低学年の男の子が、将棋の大会で「ここはどこ?僕は誰?」みたいな表情で入場するシーンや、
(負けて)おいおい泣くシーンを見て、
てっきり「『発達障害』と診断されているが将棋には高い適応性を見せている、という少年を取り上げているのかな」と思ったことがありました。
それが、中学生としてプロデビューして以来二十連勝とかしている藤井聡太さんの、過去の映像だと知って、
がぜん興味がわきました。
「僕は天才だぜ、すごいぜ」みたいな人相とはおよそかけ離れていて、
むしろかなりネジの緩そうな、脱力系の少年なので、「これは本物かも」と根拠なしに思いました。
大一番の対局などで勝利した後のインタビューを見ても、いつも「どうせ僕なんか…」と言いたげなくよくよした様子。
自慢とか、誇らしげとか、実際以上に自分を大きく見せようとか、
そうしたこととは真逆なたたずまい。
師匠や他人から勧められた鍛錬法は素直に取り入れ、貸してもらった本はすべて読み、AIでの研究も熱心に取り組み、
とにかくできることは何でもやる、
大小さまざまな川の流れをすべて受け入れてどんどん大河となっていっている、
そんな印象を受けます。
あの緩そうな表情は、あらゆるものを受け入れる柔軟性の表れ。そう思えます。
藤井さんと対局する相手はみんな猛烈に研究して臨むから、藤井さんは誰と対局してもいつも苦戦を強いられるそうです。
そうした経験もすべて自分の糧として取り込んでいっているのでしょう。
一億手とか六億手とか読むというAIから見て「最善手」を連発させるとか、
そのAIが一億手読んだ段階では「次善の手」と判定された一手が、
六億手読んでみたら「最善手」だったとか、
ちょっと意味不明なのですが、
人間の脳の可能性・受容性は本当に無限大なのだということが語られているのだと思います。
どれほどの大海になってゆくのやら…
年をとっても、勝利インタビューではくよくよしてるのかなあ。
だといいなあ。