言を以て伝うべからざるなり

授業前の素読(荘子四十七 天道篇第十三)

世の、道に貴(たっと)ぶ所の者は、書なり。
書は語に過ぎず。語の貴ぶ所の者は、意なり。
意の随(したが)う所の者は、言を以て伝うべからざるなり。
而(しか)るに世は、言を貴ぶに因(よ)りて書を伝う。
世はこれを貴ぶと雖(いえど)も、猶(なお)貴ぶに足らざるなり。
其の貴ぶべきに非ざるが為なり。
故(そ)れ視て見るべき者は、形と色となり。
聴きて聞くべき者は、名と声となり。

悲しきかな、世人は形色名声を以て、彼の情を得(う)るに足ると為す。
夫(か)の形色名声、果たして彼の情を得るに足らざれば、則(すなわ)ち知る者は言わず、言う者は知らず。
而るに世豈(あ)にこれを識(し)らんや。

【大体の意味内容】
この世において、求道のために尊重するものは、書物である。
ただし、書物は書き記されたことば(ロゴス)に過ぎない。
ことばが尊重するものは、意味内容である。
そうした意味内容のもとになる情念(パトス)は、ことばでは伝えられない。
ところが世間では、ことば(ロゴス)を尊重するものだから、書物を後生大事に伝えていっている。
しかしやはり、書物それ自体はべつに尊重すべきものではないのである。

目で視て見えるものは、物の形や色であり、耳で聴いて聞こえるのは、物の名や音声である。

悲しむべきことに、世の中の人々は、そうした形や色、名や音声によって、それらの根本にある情念(パトス)を十分把握できると思っている。

あの形や色、名や音声といった、表面的な現象だけでは、そうしたものを表象させる根本情念(パトス)を知ることはできない。

『老子』にあるように、「真実(ほんとう)に知っている者はことばで説明しないし、言葉で説明し切ったと満足する者は、実は真実(ほんとう)には知っていない」のだ。
世の中の者はこうしたことを、認識できてはいないのである。

【お話】
「ロゴス」とは英語のロジックの語源で、「論理、言語、理性」など、理屈を大事にして物事を筋道立てて考える働きです。
「パトス」はパッションの語源で、「情念、感情、感性」など、自分の心の働きに違いないのですが、自分の頭でコントロールすることができないものです。
「あの人を好きになろう」としても心から好きになれるとは限らず、「嫌いになろう」としてもますます思いが募(つの)ってしまうこともありますね。頭で支配することのできない、本当の自分の心、ともいえましょう。

自分の気持ち(情念)を、うまく相手に伝えられないもどかしさを感じたことはよくあるでしょう。
たとえいろんな言葉を知っていたとしても、どうしても自分の本当の思いを伝えるには、しっくりこない。
そういえば、しゃべりながらうまい言葉が見つからないときに、「なんだろ」と呟(つぶや)くことで、「不十分ながら一応言葉にしてみますが」、というメッセージを込めた話し方が、しばらく流行(はや)りましたね。
つまりどれだけ言葉を重ねても、伝えたいことを伝えるには不完全なのです。
世の中に書物はたくさんありますが、ことばと格闘してまとまった文章を書き残す人々ほど、ことばによる表現の限界をいやというほど思い知ります。
名文・名言と評価されるものは、そのすべてが言葉の限界に打ちのめされつつ真剣に戦ってきた痕跡(こんせき)と言えましょう。

大学時代に、「本は踏みつけてから読め!」とおっしゃる教授がいました。
本に書いてあることだからと言って、すべて正しいと信じ込んではいけない、素晴らしいところや、おかしいところ、賛成できないところを冷静に判断しながら批判的に読め、という事なのでしょう。

こうした意見は、もちろん本を読むな、と言っているわけではありません。
妄信(もうしん)するな、という事であり、本を読むことを通じてその背後の思念やイメージ世界を自分なりに探究し、世界を広げ深めてゆくことが大事なのです。

一冊の本(マンガも)との出会いが人生を変える、そういうことは普通に起きます。