(荘子四十三 天道篇第十三)
天道は運(めぐ)りて積む所なし、故に万物成る。
帝道は運(めぐ)りて積む所なし、故に天下帰す。
聖道は運(めぐ)りて積む所なし、故に海内(かいだい)服す。
天に明らかに、聖に通じ、帝王の徳に六通(りくつう)四辟(しへき)する者は、
其の自ら為すや、昧(まい)然(ぜん)として静ならざる者なし。
聖人の静なるは、万物の以て心を鐃(みだ)すに足る者なきが故に静なり。
水の静かなるときは、則ち鬚(しゅ)眉(び)を燭(てら)し、
平らかなること準(みずもり)に中(あた)る。
而(しか)るを況(いわん)や聖人の心の静なるをや。
天地の鑒(かがみ)なり、
万物の鏡なり。
【大体の意味内容】
天の道、即ち宇宙自然は運動を続けてとどまることがない、
そこで万物が生成するのである。
帝王の正義も、運営され続けてやむことがない、
そうであれば、天下万民も安心してその法(のり)に従う。
聖人の仁徳も運用してとどまることがない、
それゆえ、四海の内のすべてが心服するのである。
天の道に明らかで聖人の道にも通じ、帝王の徳をもくまなく知りつくすという者の場合、その立ち居振る舞いは、無心で静寂である。
聖人の静けさは、意図的にそうしているのではなく、万物と関わっても心を騒がせるほどのものがないから、結果的に静かなのである。
水が静かであるときは、光を照らすことで鬚(ひげ)や眉のような細密なものまでも明らかに浮かび上がらせる。
その平らかな水面は、この世の平面そのものの基準となる。
(だから「水準器」という道具が存在し、大工はそれを用いて建築物の傾きを正す)。
ましてや聖人の心の静けさはなおさら、絶対的な平らかさを備えている。
それは天地万物のすべてを明るく照らし出す鑑(かがみ)であり、
そのありのままの姿を写し取る鏡なのである。
【お話】
宇宙や自然の働き、帝王の理想的な統治や聖人の仁徳による政治が常に大きな潮流を為すようにして機能していれば、この世は一見何の変化もないように静
かで穏やかな平和であり続ける。
動的(ダイナミック)な流動が、一見静的(スタティック)な安定をもたらす。
現代の物理学や化学で「動的(ダイナミック・)平衡(イークワリィブリアム)」と呼ばれるものと同じような世界観だと思われます。
ダイナミズムに裏打ちされた静。
その聖なる静が水面であり、それはそのまま鏡ともなる。
鏡というと物の姿かたちを映し出すものと思いがちですが、本来は光を照らすものであったことがこの文章から分かります。
その機能を重視して制作されたものが青銅鏡なのです。
青銅器というと、歴史の教科書に載っている、青黒く変色した物を思い浮かべるでしょうが、
それは約2千年近くもの間、土中に埋まって酸化したもので、もともとは金色に輝く美しいものでした。
「卑弥呼(ひみこ)の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡を複製したものがYouTubeで見られます。
装飾面の裏側は研磨職人によって入念に磨かれ、現代の鏡と同じようにきれいにものを映し出します。
しかもガラスの鏡と違って温かく深みがある。
が、この鏡の真骨頂はそこではありません。
「魔鏡」なのです。
光を当てて反射光をスクリーンに投影させると、裏側の装飾面の紋様がそこに浮かび上がるのです!
職人の特殊な技で研磨すると、裏面の凹凸が、鏡の面にも反映されるのだとか。
この技法を使った「和鏡(わかがみ)」はその後も受け継がれ、
江戸時代には隠れキリシタンが、「ただの銅鏡」に細工して、光を反射させることでスクリーンに十字架や、赤ん坊のイエスを抱く聖母マリアの像などを映
し出して、拝んでいたそうです。これもYouTubeで見られます。
出雲大社とか伊勢神宮とかの由緒あるお宮の鏡も、きっと魔鏡なのでしょう。
何が現れるのか興味あります。
同時に、自分だけの魔鏡も、欲しくなりますね。