其の愚を知る者は大愚に非(あら)ざるなり

授業前の素読(荘子四十二 天地篇第十二)

己を諂人(とうじん)と謂わば、則ち勃然(ぼつぜん)として色を作(な)し、
己を諛人(ゆじん)と謂わば、則ち怫然(ふつぜん)として色を作(な)す。
而(しか)も身を終うるまで諂人(とうじん)なり、諛人(ゆじん)なり。

譬(たと)えを合わせ辞(ことば)を飾りて衆を聚(あつ)むるも、是れ終始本末、相い坐せず。
衣裳(いしょう)を垂れ、采色を設け、容貌を動かして、以て一世に媚びながら、
而も自らは諂諛(とうゆ)と謂(おも)わず、夫(か)の人と徒と為りて、是非を通じながら、而も自らは衆人と謂(おも)わず。

愚の至りなり。

其の愚を知る者は大愚に非(あら)ざるなり。
その惑を知る者は大惑に非ざるなり。

大惑なるものは終身解(さと)らず、
大惑なる者は終身霊(あきらか)ならず。

【大体の意味内容】
自分のことをお追従者(ついしょうもの)だと言われるとむっとして気色(けしき)ばむ者がいる。
自分のことをご機嫌取りだと言われるとかっとなって真っ赤になる者もいる。

このような者は、所詮死ぬまでお追従者であり、ご機嫌取りで終わる。

うまいたとえ話をしたり、美辞麗句を飾り立てて、大衆の人気を集めるようなお追従者ほど、かえってお追従者とは非難されない。
立派な服で着飾ったり、容貌を取り繕って世の中に媚(こ)び諂(へつら)いながら、自分ではお追従者とは思っていない。
またそのような者と仲間になって、あれは良いとかこれはダメだとか、自分の意見を持たずに周りに合わせるばかりなのに、自分では大衆の一部とは思わない。

まったくもって愚かの極みである。

自分の愚かさを知っている者ならば、決して大愚(たいぐ)にはならない。
自分が惑(まど)っていると自覚する者は、決して大惑(たいわく)にはならない。

大惑の者は、一生自分の不様さを悟ることができない。
大愚の者は、死ぬまで無知蒙昧(もうまい)で、物事の真理本質を明らかにできない。

【お話】
 江戸時代に越後国(新潟県)に生まれた禅僧で良寛という人がいます。
「名主」という、村長の家柄なのでそれなりに裕福だったのでしょうが、天災・凶作・飢饉(ききん)や疫病(ウィルス)などの不幸に見舞われるこの世の無常を儚(はかな)んで仏門に入ったと言われています。長年の修行・放浪を経て、越後国国上(くがみ)村で「五合庵」という庵を結んで暮らしました。

ペンネームが「大愚」。

大愚良寛。

その生涯についてあまり詳しくは知りませんでしたが、この名は印象深いものがありました。『荘子』から来ていたのだな、と今回初めて知りました。

難しい説法は行わずにわかりやすく民衆を教化し、「一日に五合の米があればよい」と、村人にそれ以上の報酬は要求せず、寺も持たずに質素な家で暮らしていたそうです。それで「五合庵」と呼ばれるようになった。

和歌や漢詩、俳句もよくし、書家としても著名でしたが、高名な人物からの揮毫(きごう)の依頼は断る傾向があり、子どもたちから凧(たこ)に何か書いてとせがまれたときは喜んで応じたそうです。

「天上大風」

文字通り天の上(高いところ)には大風が吹いている、ということで、子どもたちも喜んで凧上げしていたと。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と捉え、かくれんぼや手毬(てまり)をついたりしてよく遊んだともいいます(懐には常に手毬を入れていたとか)。

この「天上大風」の凧は今でも残っているそうです。

良寛自身はことさら解説していないでしょうが、人々はこれに尋常ではない尊さを感じ取って、大事に残したのではないか。

「天」は老子・荘子では道の原理の前提である宇宙そのものを指しています。

なので本来その「上」など想定すべきではないのですが、
敢(あ)えて「雲上」とはせず「天上」と書いたところに良寛なりの「大愚」なイメージ世界があるのでしょう。

宇宙を超えた世界は、大いなる風流(ふりゅう)であると。