王徳の人

授業前の素読(荘子四十一 天地篇第十二)
蕩蕩乎(とうとうこ)たり、忽然として出で、勃然(ぼつぜん)として動き、而して万物これに従わんか。
此れを王徳の人と謂う。

冥冥に視、無声に聴く。
冥冥の中に独り暁(ぎょう)を見、無声の中に独り和を聞く。

故にこれを深くして又深くし、而して能く物あり、
これを神にしてまた神にし、而して能く精あり。

故に其の万物と接(まじ)わるや、至無にして其の求めに供し、
時に騁(は)せて其の宿を要(もと)め、
大小長短脩(ゆう)遠(えん)、各々(おのおの)其の具ありと。

【大体の意味内容】
ひろびろと大きな器量を持ち、忽然(こつぜん)としてたちまちに現れ、
勃然(ぼつぜん)として気ままにふるまい、それでいて万物がそれに従ってゆく。
このような人を王徳、つまり旺盛な徳の持ち主という。

王徳の人は、漆黒の闇の中でこそものを見、無音の静けさの中でこそ真の声を聞く。
つまり宇宙の闇に独り捨て置かれていることを受け入れれば、かえって光明を見出すのだ。

森厳な静寂にあって全身の気孔を開けば、森羅万象の和音が聞こえてくる。
だから、たんに目や耳に頼るのではなく全細胞の感応力を、深いうえにもさらに深めて、
そうして、ものの実存を把捉する。

自分という枠を超えた、いのちの神性を魂(たま)振(ふ)れば、ほんとうの精神が発動する。

したがって、王徳のものが万物に交わると、
己を虚無にして、万物が本来どのように在るのを望んでいるか知り、対応する。
「その時」を知れば縦横無尽に駆けめぐり、万物の在るべき処を覓(もと)めてゆく。
大きいもの小さいもの、長いもの短いもの、近いもの遠いもの、
それぞれの在(あ)り処(か)を確定させる。

【お話】
「アインシュタインはアインシュタインでありたい」という有名な言葉がありますが、特別な内容がないとみなされてか、世に流布(るふ)する「アインシュタイン名言集」には採録されていません。
が、「アインシュタインはein(一つの) stein(石)でありたい」と直訳すればどうでしょう。
意味深になりますね。
「stein(シュタイン)」には「石」のほかに「種」の意味もあるようです。
アインシュタイン博士は、自分の姓が示す物から、生命の核や、永遠性を維持した何かでありたいと願ったのでしょう。

あなた方の姓はあなたの在り処(か)や在り方を規定しているものが多く、あなたの名は、あなたの生命存在への願いが込められた呪(じゅ)詞(し)(呪文(じゅもん))です。
名付けてくれた人から、あなたの名前の由来をぜひ聞いて、知っておきましょう。

今回の文章、とても味わい深いので、皆さんなりにいろいろ連想して考えてみるとよいと思います。

絶望的な闇の中でこそ、本当の光が見える。
関係ない話ですが、寝ている時の夢は、いつも不思議に思います。
全く知らないはずの人と親しく語り合ったり、知らない言語を自分が話していたり、
未知の書物が出てきて、自分が全く知らない分野について詳しく書かれていたり、
ほんとうに前世というものがあって、その時の記憶を引きずっているのではないかと思えてしまいます。

「無声の中に独り和を聞く」。
これも無関係な連想ですが、三月中「無観客試合」というのが行われていましたが、何か見ましたでしょうか?
普段は聞こえない「音」や「声」が際立ちましたね。
特に大相撲の、横綱の土俵入りは良かった。
シコを踏む前の「ひゅ~~~~~」という呼吸音、柏手(かしわで)(拍手)の音(白鵬が下手なのがばれた)、
しこを踏んだ「ずしっ」。
神聖な音がよく響きました。

非日常的な状況下では、普段気付けないで過ごしてきたいろんなことを知ったり感じたりできるチャンスでもあります。
早く本来の日常生活を取り戻せるように努力しつつも、
今でなければ体験できないことについても、敏感になって味わってみましょう。