授業前素読
(荘子四十 天地篇第十二)
然(か)くの若(ごと)き者は、
金を山に蔵(かく)し、
珠を淵に沈め、
貨財を利とせず、
貴富に近づかず、
寿を楽しまず
夭(よう)を哀しまず、
通を栄とせず
窮を醜とせず、
一世の利を拘(よ)って以て己の私分と為さず、
天下に王たるを以て己れ顕に処(お)ると為さず。
万物は一府、
死生は同状たりと。
【大体の意味内容】
このような理想的君子は、
黄金は山に埋め、真珠は淵に沈めてぜいたくな暮らしはしない。
財貨を獲得することを利益とは思わず、富貴なものに近づいて恵んでもらおうなどとはしない。
長生きだからといって喜ばず、夭折つまり若死にだからといって悲しむこともない。
立身出世して栄達することを名誉とせず、困窮状態を恥などとは考えない。
世の中の利益を取り収めて自分だけの財産とするようなこともない。
天下の王となることが自分の顕栄だとは考えない。
万物には本来差別はなくすべて同じ蔵に収まっているものである。
死は「往生」という通り、他界に往(ゆ)きて生きることであって、
死と生とは本来表裏一体のことでしかないのだ。
【お話】
子どもの頃、バカとかアホとかいわれるよりも、「卑怯(ひきょう)」と言われることが、最も屈辱的という感覚がありましたが、いまは
どうでしょう。
「卑怯(ひきょう)」とは、おおむね、以下のようなイメージで使われていました。
・自分だけが得するように他人をだましたり欺(あざむ)いたりすること。
・みんながルール通りに行動している中で、自分だけこっそりルールを破って得しようとすること。
・自分が対応すべきことがいやだったり面倒だったりすると、適当な言い訳をしてそれから逃げようとしたり、あるいは他人に押し付け
ようとしたりすること。
・自分が失敗したりミスしたりしたことについて、正々堂々と謝罪せず、つまらぬ言い訳で責任逃れしようとすること、もしくは他人の
せいにしてその人を貶(おとし)めること。
「卑怯〔卑(いや)しい、怯(おび)える〕」の辞書的な意味は「勇気のないこと、臆病なこと。心の賤(いや)しいこと。正々堂々としない
こと。」などがあげられています。
こ゚の辞書的な意味をはっきり知っていたわけではなかったのですが、だれもが右の様な態度行動をとる人物を「卑怯者(ひきょうもの)」
と呼んでいましたし、
最悪の侮辱ですから、言われた方にその自覚がなければ烈火のごとく怒りだす言葉なので、
軽々しく使えない言葉でもありました。
こう改めて書いてみて思いました。
今はこの卑怯者が、頭のよい有能な人間で、出世したり、リーダーとしてふるまうのにふさわしいとされている時代ではないのか。
もちろん全員が、ではありませんが、そうとしか思えないような人々が幾人もこの社会で幅を効かせています。
今回の素読で取り上げた「君子」は、こうした「卑怯(ひきょう)」とは真逆の存在だと思えばわかりやすい。
「君子」にはなり切れなくても、「卑怯者」にならない生き方はできます。
「卑怯」と言われたり思われたりするのはつらい、という感覚を持つことはできます。
もちろん、いろんな意見はあってよいと思います。
「卑怯(ひきょう)」を善(よ)しとする意見だって、アリでしょう。
自分が貶(おとし)められても「素晴らしい卑怯な目に会えた」と喜べるならば…