至正なる者は、其の性命の情を失わず

(授業前の素読 荘子三十二 駢拇篇第八)
彼(か)の至正なる者は、其の性命の情を失わず。
故に合する者も駢(べん)と為さず、而(しか)して枝ある者も跂(き)と為さず。
長き者も余ありと為さず、短き者も足らずと為さず。
是の故に鳬(かも)の脛(すね)は短しと雖(いえど)も、これを継がば則ち憂(うれ)えん。
鶴の脛(すね)は長しと雖(いえど)も、これを断たば則ち悲しまん。
故に性長きも断ずる所に非ず。性短きも続(つ)ぐ所に非ず。
去(おそ)れ憂(うれ)うる所なければなり。

【大体の意味内容】
あの「全く正しい」者は、その性(うまれ)命(つき)の情念を失ったりはしない。
だから、指がくっついてしまっている奇形を駢拇(べんぼ)と呼んで蔑(さげす)むことはしない。
指が余計に分かれていても、それを歧(むつゆび)と呼んで嘲(あざけ)ることはしない。
長いものを余分とはせず、短いものを不足とは考えない。(みな性(うまれ)命(つき)の自然な在り方をしているだけだからである)。
こうした道理ゆえに、鴨の足は短くても、それを長く継ぎ足したら嫌がるだろう。
鶴の足は長くても、、それを短く断ち切られたら悲しむだろう。
だから、生まれつき長いものは、断ち切るべきでなく、生まれつき短いものも、継ぎ足すべきではない。
生まれつきの自然状態について、くよくよと気にかけることは何もないからである。

【お話】
生まれつきを尊重し、人為的に改変を加えることをよしとしないこの話とはむしろ対立するかもしれませんが、なぜかパラリンピックの選手たちを思いだしました。義足を付けたり、車いすを使ったりして協議する彼らは、一見、この荘子の趣旨とは対立するように見えますが、何か本質的なところでは通ずるものがありそうな予感がしました。

なかでも、ベルギーの車いす陸上女子選手で、パラリンピックメダリストのマリーケ・フェルフールトさんのことが強烈によみがえって来ました。

彼女は昨年二〇一九年十月二十二日、安楽死を選んで死去しました。四十歳でした。

フェルフールトさんは、パラリンピックの二〇一二年ロンドン大会で車いすの100メートル走金メダル、200メートル銀メダルを獲得。二〇一六年リオデジャネイロ大会でも、400メートル銀メダル、100メートル銅メダル)に輝きました。

彼女は、筋力が次第に衰える進行性の脊髄(せきずい)の病気で、「反射性交感神経性筋ジストロフィー(現在は複合性局所疼痛(とうつう)症候群、CRPSと呼ばれる)」、もしくは進行性四肢(しし)麻痺(まひ)に苦しんでいました。
治療は不可能だと。
両脚に絶え間ない痛みと発作、しびれが起こり、眠ることすら難しい状態だったそうです。
アスリートとして活躍している時も、しばしば泣き叫ぶほどの激痛に見舞われていたとか。

安楽死はベルギーで法律によって認められています。
フェルフールトさんは二〇〇八年、安楽死を認める書類にサインしました。

そして二〇一六年のリオ五輪の前に、「大会終了後のいつか、安楽死する」ことを公表して世界に衝撃を与えました。

 CNNのインタビューでは、安楽死を申請したことで自分人生の主導権を取り戻せた、「私はもう死を恐れない」「眠りに就いて、二度と目を覚まさない。私にとって、それは安らぎに満ちている。苦しみながら死にたくない」と話していました。
耐え難い苦痛に苦しむ人が安楽死できない国に向けた啓発になればと話し、
「全ての国が安楽死法を制定すれば、自殺者は減ると思う。これは殺人ではなく、もっと生きてもらうための措置(そち)と受け止めてほしい」と訴えていました。

 安楽死する当日、フェルフールトさんは家族や友人を招いて、シャンパンを振る舞いました。

「これは『お祝い』なのよ」「安楽死だけが生きる希望だった」と。

 安楽死を法的に認めると、「社会的弱者(嫌な言葉です)」とみなされる人への無言の圧力がかかるのは目に見えているので(特に日本では)、基本的には法制化すべきではないと思います。
「安楽死利権」が生じ、これをビジネスチャンスと目論(もくろ)む人々が大勢蠢動(しゅんどう)するに違いありません。
ですが、フェルフールトさんのメッセージ自体は、重く受け止めるべきと思いました。

「性命(うまれつき)」のあるがままに人為を加えない、そのことと、パラアスリートたちの様々な工夫努力や、生き方〔死に方〕の選択とは、必ずしも矛盾しないような気もします。
彼女たちの、どうにもおさえがたい生命燃焼への志向そのものが、
「性(うまれ)命(つき)」であるには違いないはずですから。