造物者と人(にん)と為りて、天地の一気に遊ぶ

(授業前の素読 荘子二十七 大宗師篇第六)

孔子曰く、彼は方(ま)且(さ)に造物者と人(にん)と為りて、天地の一気に遊ぶ。彼は生を以て付贅(ふぜい)県(けん)疣(ゆう)と為し、死を以て決丸潰癕(けっかんかいよう)と為す。夫(そ)れ然(か)くの若(ごと)き者は、又悪(いず)くんぞ死と生との先後の在る所を知らんや。異物に仮りて、同体に託し、其の肝胆を忘れ、その耳目を遺(わす)れ、終始を反復して端倪(たんげい)を知らず、茫然として塵(じん)垢(こう)の外に彷徨し、無為(ぶい)の業に逍遥す。彼又悪(いず)くんぞ能く憒憒(かいかい)然(ぜん)として世俗の礼を為し、以て衆人の耳目に観(しめ)さんやと。

【大体の意味内容】
孔子は言った、「彼らはちょうど造物者と仲間になって、天地開闢(かいびゃく)以前の一気の境地に遊んでいるのだ。(世界が整然とした宇宙(コスモス)になる前の、ぐちゃぐちゃの混沌(カオス)に戯れていると言っていい)。彼らは「生」を“こぶ”や“いぼ”の様な余計なものとし、「死」を“かさ”や“はれ物”が潰れた清々しいものとみなしている。いったいこのような人たちが、どうして死と生との後先(あとさき)がどのようであるか、などと考えたりしようか。我々人間とは、様々な異物を借り集めて、一つの身体とみなしているだけの、仮初(かりそめ)の存在に過ぎない。だから普段は肝臓や胆嚢の様な内臓のことを忘れ、目や耳などの外形を忘れていて、至極当然なのだ。生き生き生きて、生の始めを知らず、死に死に死にて、死の終わりを知らない。何事にもとらわれず茫々然として俗塵にまみれたこの世の外を彷徨(さまよ)う。卑俗な人為を離れて無為(ぶい)自然(じねん)に逍遥(そぞろあるき)して楽しむのみなのだ。ごてごてと飾り立てたような礼儀作法を荘重に執り行い、世間の耳目を引くように振る舞うことなど、彼らには「やってらんねえよ」ということなのだろう。