(授業前の素読 荘子二十一 徳充符篇第五)
哀公曰く、何をか才全しと謂うと。
仲尼曰く、死生存亡、窮達貧富、賢不肖、毀誉、寒暑は、是事の変にして命の行なり。
知も其の始めを規(うかが)うこと能(あた)わざる者なり。
故に以て和を滑(みだ)すに足らず、霊府に入るべからず。
これをして和豫(わよ)せじめ、物と春を為す。
是接(つ)ぎて時を心に生ずる者なり。
是を才全しと謂うと。
何をか徳形(あらわ)れずと謂うと。
曰く、平なる者は水の停(とど)まりの盛なり。其れ以て法と為すべし。
内にこれを保ちて外に蕩(うご)かざればなり。
徳なる者は成和の修なり。
徳の形(あらわ)れざる者は物離るること能(あた)わざるなりと。
【大体の意味内容】
哀公はたずねた、「様々な才能が完全であるとは、どういうことであるか」と。
孔子は答えた、「死亡と生存、貧窮と栄達、賢と愚、毀(こぼ)れと誉(ほま)れ、寒さと暑さなどは、事象の変化であり、万物の生命運動です。
人間の知性ではその根本始原をうかがい知ることはできません。
したがって、そのような変成流転の現象が宇宙の本質的調和を乱すということはありませんし、
霊的な核心にまで侵入してくることはできません。
万物の生々流転をも、大いなる調和の現れとし、異なる物と物との融合が、新魂(あらたま)の春を為すのです。
そのようにして様々な和合生成の連続としての時の流れを人々の心に生みつけて行くような才能、
つまり天・地・人・神の四才(しさい)全てを整わせてしまう仁徳を、
『才全(まった)し』というのです。」
「ではそのような仁徳が外に現れないというのはどういうことであるのか。」
「平衡とは、たとえば水が静止したように見えるのも、実は水分子どうしは盛んに働きかけあっていることでバランスが保たれているという、動的な平衡であるのです。
こうしたダイナミズムが、万物をあらしめる法則です。
内部では想像を絶するすさまじさで命ある要素がぶつかり合っているが、その激しさは外には見えず、
無為無風の静けさとしか見えないわけです。
それと同様に、一見柔和で穏やかな、何事にも激昂することのない仁徳者は、
実は誰よりも世の中の矛盾や不条理に敏感で、悪辣なものへの怒り、虐げられるものの哀しみ、絶望などをすべて抱え込み、苦しみのたうち回る思いを宥和(ゆうわ)し修整する者です。
仁徳を表面に表したりひけらかしたりしない者は、そのようにあらゆるマイナスのストレスを一身に引き受けてくれる者であるから、
おぞましい情念を持て余した者たちは、それを受け入れてくれる彼に引き寄せられ、離れることができなくなってしまうのでしょう。
【お話】
醜男(ぶおとこ)哀駘它(あいたいだ)シリーズの3回目最終回です。
生物学者福井伸一氏の「動的平衡」理論が、二千年以上前のこの『荘子』にハッキリと展開されていることにまず驚かされます。
この世にありとあらゆるもの(有機物)は、一つの個体として固定されたもののように見えますが、
実はその内部で細胞の分裂生成や死滅のせめぎあいでバランスを取っているから、外見上は「固定」されているように見えるだけです。
分子レベルでも絶えず激しく化学反応しあっているのですが、
そうしたダイナミズムによってかろうじて、あたかも静止しているような固定感、安定感を維持しているわけです。
日常の様々なこと、ありきたりで平凡な、「変わり映えのしない」物ごとは、じつはすべて、こうした激しい活動の上に成り立っていると思えばいいでしょう。
荘子はそうした物理現象のレベルにとどまらず、人間精神においても、
仁徳とか道徳とかいうものは、いかにもそれらしく顕わさず、むしろ逆の、おぞましく醜い情念(パトス)と、美しく清らかな思いやり(エートス)との相克により、
一見何の輝きもないようなしょぼさにおいてこそ認められると主張しているのです。
哀駘它は醜男なのに不思議とみんなの人気者、それは心がとても素晴らしいから、という話かと思ったら実はそういうことではなかったのです。
逆に、多くの女も男もみんな醜い面があって、自分の穢れをなすりつけられてくれる犠牲者であり続けてくれるから、哀駘它から離れられなくなっている、ということだったのです。