(今週の素読 荘子14 人間世篇第四)
匠(しょう)石(せき)帰る。
櫟社(れきしゃ)、夢に見(あら)われて曰く、
女(なんじ)将(は)た悪(なに)にか予(わ)れを比するや。
夫れ柤(さ)・梨(り)・橘(きつ)・柚(ゆう)の果蓏(から)の属、
実熟すれば則ち剥(はぎと)られ辱(もぎと)られ、
大枝は折られ小枝は泄(ひ)かる。
此れ其の能を以て其の生を苦しむる者なり。
故に其の天年を終えずして、中道にして夭(よう)し、
自ら世俗に掊撃(ほうげき)さるる者なり。
物是くの若(ごと)くならざるは莫(な)し。
予(わ)れをして有用たらしめば、且(は)た此の大あるを得んや。
而して死に幾(ちか)きの散人、又悪(いずく)くんぞ散木を知らんやと。
匠石、覚めて其の夢を診(つ)ぐ。
彼の保(ほう)とする所は衆と異(い)なり。
義を以てこれを誉(あげつ)らうは、亦た遠からずやと。
【大体の意味内容】
大工(だいく)の棟梁(とうりょう)の石(せき)が家に帰ると、その夜の夢に櫟社(れきしゃ)の神木が現れて、こう告げた。
「お前はいったいこのわしを何と比べておるのだ。
柤(こぼけ)や梨や橘や柚などの木の実・草の実の類は、その実が熟するとむしり取られもぎ取られる。
大きな枝は折られ、小さい枝は引きちぎられることにもなる。
これは、人間の役に立つという有能さがあることで、
かえって自分の生命を苦しめているものだ。
だから、天に与えられた寿命を全うせずに、道半ばで夭死(わかじに)したり、
自分から世俗に打ちのめされているものなのだ。
かくの如くにならない物は無い。
もしもわしが人間にとって有用なものであったなら、このように大なる存在とは成らなかったであろう。
お前は棟梁と敬われて思い上がっているようだが、死にかけの役立たず、すなわち散人にすぎない。
お前からすると「役立たず」な散木のわしは、
この先いつ朽ちるのか見当がつかない長寿を保つ、そのような存在の神髄を、お前が知ることはあるまい。」と。
棟梁の石は目が覚めると、この夢のことを弟子たちに話した。
「あの木が宝とすることは、世間一般の価値観とは異なっているのだ。
いのち短い我らの道理でそれを論じたてるのは、見当違いも甚(はなは)だしいことだったのだな」と。
【お話】
前回の話の後編です。
「其の能を以て其の生を苦しむる」というのはまさに現代社会における皮肉を言い当てています。
有能で役立つ人ほど、社会の優秀な歯車として使えるだけ使い込まれ、摩耗し劣化したらポイと捨てられ、他と交換される。
「役に立たなくなった」「使えない」と評価された人は容赦なくリストラされてきました。
リストラされる前は、追い詰められボロボロになり、或いはうつ病になったりして、
でも「入院」するようなはっきりした病気でない限りは休めないし、与えられたノルマを緩和してももらえない。
「甘えるな」「できない理由ばかり並べるな」「無責任だろ」とあおられます。
挙句の果てに「嫌なら辞めろ」と。失業したくなければ耐えて、頑張り続けるしかありません。
なのにリストラされるわけです。
限界だと思いつめた人の中には、自ら命を絶つ人もいらっしゃいます。
「日本の自殺者数」は十年以上続いていた三万人をようやく割って、平成二十四年からは二万人台に減ったと言われています(警察庁HP、厚生労働省HP「自殺者数の推移」)。
二万人台でも、毎日五十五人ずつ自殺しているのですから十分多いですが、実はもっと、とんでもなく多いともいわれています。
「遺書」がない自殺は、「変死」の扱いで、「自殺者数」にはカウントされないそうです。
首を吊(つ)っていたりとかで明らかに自殺にしか見えない場合でも、です(確かに他殺や事故の可能性もあるとは言えますが)。
とてもではないが、「遺書を書く」という心的状態ではなかった場合も多々あったことでしょう。
「変死者」は十五万人だそうです(小泉純一郎首相、竹中平蔵金融担当大臣政権下の2003(平成十五)年。民主党山田正彦議員調べ)。
WHO(世界保健機関)では「変死者」の半分は「自殺者」としてカウントするそうですから、国際基準に従えば日本の自殺者は十一万人前後と見なければならないことになります。
つまり毎日300人自殺していた、ということです。毎日ですよ。
このような世の中自体を変えていかなければならないのが大前提です。
れいわ新撰組の山本太郎の決め台詞(ぜりふ)ではありませんが「生きていたい世の中へ変えよう」です。
同時に、「散木」の「保(宝)とする所は衆とは異(い)なり。」という開き直りも持ちたいですね。
「無為無能、役立たず」な自分。
「それがどうした!」「だから無敵なんだ!」
誰にも認められなくても、そのまんま堂々と生き抜いてしまうこと。
それってカッコいいし、偉大だと思います。