同徳・天放

(荘子 馬蹄篇第九―1二)

民には常性あり。
織りて衣(き)、耕して食う。
是を同徳と謂う。
一にして党せず、
命じて天放と曰う。

故に至徳の世は、其の行は塡塡(てんてん)たり。
其の視は顛顛(てんてん)たり。

是の時に当たりてや、山には蹊隧(けいずい)なく、
沢には舟(しゅう)梁(りょう)なし。

万物は群生して其の郷に連属し、
禽獣(きんじゅう)は群れを成し、
草木は遂(すい)長(ちょう)す。

是の故に禽獣も係羈(けいき)して遊ぶべく、
鳥鵲(ちょうじゃく)の巣も攀援(はんえん)して闚(うかが)うべし。

【大体の意味内容】
民衆には恒常不変の本性がある。

織り物をしてはその衣類を着、
耕作してはその作物を食べている。

それを同徳、すなわち万人に等しい徳(ありさま)という。
統一された徳性を持ちながら決して徒党を組んだり、
権力に束ねられたりはしない、
名付けて天放、つまり天地自然(じねん)の摂理への解放という。

ゆえに最高の徳に満ちた世では、人々の行いは塡塡(てんてん)としてゆとりがあり、
眼差しは顛顛(てんてん)として柔和な光を宿している。

こ゚のような時代では、人々は自然(じねん)と一体となった生活をしており、
山には小径(こみち)も隧(きり)道(どおし)もなく、
沢には舟も橋もない。

万物は群生して人々の村里にまで連なり、鳥獣も群れを成し草木は旺盛に繁殖する。

だから鳥や獣たちも人々とつながりあって遊んでいる。

木の上にある鳥や鵲(かささぎ)の巣にも、攀(よ)じ登って覗き込み、雛たちとじゃれあうこともできた。

【お話】
なぜか手塚治虫の漫画『火の鳥 鳳凰(ほうおう)編』を思いだしました。
主人公のひとり我(が)王(おう)は、荘子のこの部分の話とは真逆の存在でした。

奈良時代、生まれてすぐの事故で片目と片腕を失い、村の中でいじめにあい、過(あやま)って殺人を犯します。逃亡し、盗賊として殺戮(さつりく)や強奪(ごうだつ)を繰り返し、再び誤って最愛の妻まで殺してしまいます。
妻への疑いが誤解だと知って絶望し、良(ろう)弁(べん)僧正(そうじょう)に拾われて旅の供をします。

この間、病で鼻が醜く肥大しながらも人の心を取り戻し始めます。

同時に我執や怒り憎しみの情念を持て余していた我王が、貧困に苦しむとある村人たちに乞(こ)われて「仏像」を彫りますが、
自分のあらゆる邪念(じゃねん)や狂気をたたきつけるように彫った忿怒像(ふんぬぞう)が、見たこともない見事な、鬼気迫る仏像となって多くの人々に感謝されます。

それから我王は怒りそのものを祈りとして彫り続けるようになるのです。

その後も無実の罪を被(き)せられて数年間牢に閉じ込められたり、苦難の連続を生きますが、いかなる時も自分の烈(はげ)しい怒りや妄執(もうしゅう)を力として彫り続け、観る者を圧倒し続けます。

この世で最も醜(みにく)い我王の姿が、次第に神々しさを帯び始めてゆく。

東大寺大仏殿の鬼瓦(おにがわら)制作のコンペに出させられ、全霊を込めて生み出した鬼瓦はライバルを打ちのめすほどすさまじいものでした。
が不正投票で落選し、
のみならず過去の罪を暴かれて残る片腕を切り落とされ、放逐(ほうちく)されます。

両腕を失い、もはや生きるのが不可能なほどの体になった我王は、その後、奥深い山の中で、鳥獣(とりけもの)や草木たちと一体となって生き続けるのです。

森羅万象の美しさを知り、涙し、鑿(のみ)を口にくわえて、まるでキツツキのようにして彫ることを続ける。

荘厳(そうごん)な祈りに、生き続けます…