知は其の知らざる所に止まれば、至れり

(荘子 逍遥遊篇第一―6)
大道は称せず、
大弁は言わず、
大仁は仁ならず、
大廉は嗛(けん)ならず、
大勇は忮(さから)わず。

道は昭(あきら)かなれば而(すなわ)ち道ならず、
言は弁ずれば而ち及ばず、
仁は常なれば而ち周(あまね)からず、
廉は清なれば而ち信ならず、
勇は忮(さから)えば而ち成らず。

五者は园(がん)なるに而も方に向かうに幾(ちか)し。

故に、知は其の知らざる所に止まれば、至れり。

【大体の意味内容】
真の道は「道」という名詞で称(とな)えるには十分ではない。
それは、本当の弁論が、表面的な言葉だけで説得力を持つのではないのと同じだ。
真の仁愛は、表面的には仁愛に見えなかったり、
真の清廉潔白さが、必ずしも謙虚な振る舞いに結びつかないこともある。
真の勇気が大きな力に逆らい争うことばかりではないことも想起すべきだ。

つまり道とは、はっきりと「道」として明らかなものは、既にそれは本当の道ではなくなっているのである。
言葉は、ことさら弁じたてた時点で、その真意からは遠ざかり、
仁愛は、それが恒常的に施されるとかえって広く浸透しない。
清廉潔白であることは、単に清らかで穢(けが)れを知らないだけであるならば、どんなきっかけで堕落するか、信用できない。(穢れにまみれてもなお、清廉潔白であり続けることができるかどうかが大事なのだ。)
勇者は単に大きな力に逆らい争うばかりでは、滅びに向かうばかりで多くの人々の救いには成らない。

この道と言と仁と廉と勇との五徳は、円(まる)いもの、すなわち円通自在なものであるが、
ことさら実現できたように見せかけようとすれば、無駄に尖(とが)った見世物になってしまう。
したがって、こうした五徳についての知は、
本質的なことについては決して知り得ていないという自覚に止まることが、
実は至高の境地なのである。

【お話】
「道(みち)と言(げん)と仁(じん)と廉(れん)と勇(ゆう)」は、
おそらくは孔子の言う「仁・義・礼・智・信」とも対応していますし、
宇宙万物の構成元素の五行(ごぎょう)(木(もっ)火(か)土金(どごん)水(すい))とも対応するでしょう。
さらに言うと、七夕飾りの「五色の短冊」の「五色(青・赤・黄・白・黒)」とも対応しています。

まとめれば以下の通り。

(荘子)  (孔子)  (五行)  (五色)
 道  =  智  =  水  =  黒(紫) 宇宙で最上至高のもの
 言  =  信  =  土  =  黄    生命をおおもとから支えるもの
 仁  =  仁  =  火  =  赤    思いやり・慈しみ・情熱
 廉  =  礼  =  木  =  青    命の伸びやかな活力、美しい動力
 勇  =  義  =  金  =  白    鉱脈のように秘められた威力

ドラえもん役を二十六年間務めた、声優の大山のぶよさんは、
「おばあちゃんから教わった」食育の心得として
「一日五色」とラジオで語っていたことがありました(全国各地の講演でもよく話題にするそうです)。
つまり、一日で「五色(青・赤・黄・白・黒)」の食べ物を摂(と)るのが大事、ということです。

青(緑黄色野菜など)
赤(人参、小豆、トウガラシ、トマトなど)
黄(大豆、卵、芋、肉類など)
白(白菜、大根、米、キャベツなど)
黒(海苔、ごぼう、胡麻、黒豆など)

内容解釈はあまり神経質に、正確に、でなくてもよいそうで、
色合いがまんべんなくバランスよく摂(と)ることが肝心だとか。

ビタミンとかタンパクとかカルシウムとか言った栄養素の数量よりも、
最も重要なことは、
宇宙の集約である曼荼羅(まんだら)として食卓を盛り付け、味わうということなのでしょうね。

昔の人に智慧(ちえ)はすごいなあと思います。

科学的に証明されるかということより、
毎日宇宙と触れ合い、
味わいながら生きるということが、
生命の充実感につながるし、
実際その方が健康な生活につながるわけです。