(荘子1 逍遥遊篇第一)
北冥に魚あり、其の名を鯤(こん)と為す。
鯤(こん)の大いさ其の幾千里かを知らず。
化して鳥と為るや、其の名を鵬(ほう)と為す。
鵬の背、其の幾千里なるかを知らず。
怒して飛べば、その翼は垂天の雲の若(ごと)し。
是の鳥や、海の運(うご)くとき則(すなわ)ち将(まさ)に南冥天池に徒(うつ)らんとす。
水の激すること三千里。
扶揺に搏(はう)ちて上ること九万里。
去るに六月の息を以てす。
今や風に馮(の)り、背に青天を負いて、これを夭閼(ようあつ)する者なし。
【大体の意味内容】
北の果ての海に魚あり、名を鯤(こん)という。鯤の大きさは何千里に及ぶのかわからない。
変化して鳥と為った、その名は鵬(ほう)(巨鳥)という。
鵬の背中は、何千里あるのかわからない。
奮い立って飛べば、その翼は全天に広がるオーロラのような雲に等しい。
この鳥は海が荒れ狂うときこそ、その強風に乗って南の果て、天の池へと天(あま)翔(が)ける。
まず海上を滑走して浪立てること三千里。
旋風に乗って羽ばたき舞い上がること九万里。
飛び去るのは六月の大風をもってする。
今や鵬は風に乗り、真っ青な天空を背負って雄大に飛翔し、
これを遮(さえぎ)るものは何もない。
【お話】
『荘子』にはこのように雄大なスケールの寓話(ぐうわ)が多くて読んでいて楽しく、それでいて深い哲学を湛(たた)えているので、あれこれと思いを巡らされるエンジンにもなります。学生時代から愛読していました。
「名文」の誉(ほま)れも高く、古来から文章家たちの模範とされていたそうです。こうして日本語風の読み下し文にしても、音読してとてもかっこいいですよね。
この文章は『荘子』の最初の部分で、何の説明もなくいきなり寓話から始まっています。でも知的巨人の荘厳なイメージ世界の、見事な幕開けにもなっていると思います。
このイメージ世界は宮崎駿のアニメの世界でも生かされていると思います。
鯤(こん)という大魚が鵬(ほう)という大鳥(おおとり)になって飛翔するイメージは、
『崖の上のポニョ』で、ポニョが海の上を疾走する場面で波が次々と大きな魚のようになり、
さらにその魚たちが集合して一本の巨大な水柱となってポニョを天高く舞い上がらせるシーン。
また鵬(ほう)が波しぶきを立てて海上を「三千里」滑走し、旋風に乗って「九万里」もの高みへと舞い上がるシーンは、
メーヴェに乗ったナウシカや、
『紅の豚』で戦闘艇を操るポルコなどの飛翔シーンに活かされています。
ポニョ自身は無邪気に人間の男の子を好きになって駆けだしただけですが、結果的に海(自然)を汚した人間社会を脅(おびや)かす災害をもたらし、
然るのちに人と自然との和解(融和)の、いわばいけにえになります(本人は喜んで)。グランマンマーレ(大海母神)の娘としての霊格は捨てました。
『風の谷のナウシカ』の世界は「火の七日間戦争」で文明社会は滅び、都市部を中心に有毒物質に覆われた世界で生き残った人々が細々と暮らしつつも、権力争いは絶えない状況です。毒を発する「腐海の森」が、実は汚染された世界を回復させる機能を働かせていることを知ったナウシカは、人間と、腐海の王(オー)蟲(ム)たちとの争いに割って入り、人と自然の融和の可能性を示しました。
原作の漫画では、そのあと世界を滅ぼした「巨神兵」に「ママ」と思いこまれ、「破壊神」を「創造神」として再生する母として、生きる決意をします。人間の女であることを捨てるわけです。
宮崎をして、「こんなもの造るべきじゃなかった」と嘆かせた『紅の豚』。
確かに娯楽作品としての性格が濃厚ですが、愚劣な戦争を繰り返す人間への絶望や悲しみと愛情が綯(な)い交(ま)ぜになった、味わいのある作品だと思います。
豚になって天空に舞うポルコは、死者たちの目線で世界を見守っているのでしょう。
宮崎駿氏に、「荘子」の思想を翻訳しようなどという気があったかどうかはわかりません。
でもこうして巨(おお)きなヴィジョンを持とうとすると、
いつの間にか共通した哲学的思考やイメージが広がってくるのだろうと思います。
荘子は中国での戦国時代の人。今からおよそ二千三百年ほど前の時代で、老子や、『論語』の孔子の時代からおおよそ百年から二百年ほど後の時代です。
「道」の原理を説こうとする文章が多いので、よく「老荘思想」という風に、老子と荘子がセットで語られることが一般的です。そんなことも意識しながら読んでみたいと思います。