(道元2 正法眼蔵第一 現成公案)
人の悟りを得る、水に月の宿るがごとし。
月ぬれず、水やぶれず。
ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水に宿り、
全月も弥天(みてん)も、くさの露にも宿り、一滴の水にも宿る。
悟りの人をやぶらざる事、月の水を穿たざるがごとし。
人のさとりを罣礙(けいげ)せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。
深きことは高き分量なるべし。
時節の長短は、大水小水を撿点(けんてん)し、天月の広狭を辧取(はんしゅ)すべし。
【大体の意味内容】
人が「悟り」を得るということは、水面に月が映るようなものである。
月は濡れないし、水面も割れたりはしない。
広く大きな光やその七光りも、一尺とか一寸とかの小さな水面にすっぽり収まるように全体が映る。
満天の星やその背後の宇宙空間すべてが、草の露にも映り、一滴の水にもやどるのである。
大いなる「悟り」が、その偉大さがあっても、小さな一人の人間を押しつぶしてしまわないことは、月が水を突き破ったりしないのと同じである。
どんなに弱小な人間であっても「悟り」を啓(ひら)くことの障碍(しょうがい)になったりはしない。
それは一滴の露が、天月の光を世界中に映すことの妨げには決してならないのと同様である。
「深い」ことは「高尚さ」に比例するが、それはサイズが大きいとか小さいとかの影響は受けない。
時間が長いとか短いとかいうのは、月影を映すのに十分な大きさの水面であるとか小さすぎるとか、月光の照らされる範囲が広いとか狭いとか、無益な議論をするようなものである。
【お話】
高校時代に、徳川家康の子孫にあたる女子生徒がいて、友達と一緒によく話していましたが、こんなことを話してくれたことがありました。
「この地球が太陽の周りを公転してるっていうことは、『今・ここ』は明日になったら、宇宙空間になってるってことよね。そう考えると、何か、すごいよね」
足元がぐらっと揺れて、とてつもない深みにさらされたような感覚に襲われました。
たしかにそうだ、「徳川さん」の言う通り、我々が他愛もないおしゃべりに興じている学校の図書室のこの机やいすがあるあたりも、明日になったら宇宙空間になっているのだ。
それに『今・ここ』自体が、昨日までは宇宙空間だったわけだ。
それどころか、ついさっきまでも宇宙空間だった。
地球は太陽を中心に公転しているから1年後には同じ場所に戻ってくる?
いや、太陽系は、銀河系の中を回っていると聞いたぞ。
銀河系のような島宇宙たちも、それぞれ大宇宙の中を回っているって。
じゃあ、宇宙の中の本当の中心は?
本当の中心は、見つかってないはずだし、あるのかないのかもわからない。
ということはつまり、我々は永久に同じ場所には戻ってこないで、宇宙空間の中を放浪し続けているということだ。
たしかに、すごいや…
なんだかやたらと感動して、今でも鮮明に覚えています。
女子高生「徳川さん」の思い付きも、きっと立派な「悟り」なのだろうと思います。
地球という小さな星の一角に浮かぶ小さな島国に貼りついた一人の少女の心でも、大宇宙を翔け巡ってしまう、実感をもって…
私にとってもこの時に連想したイメージ世界が、その後の自分の人生、生き方に何か方向性を持たせてくれたような気がします。
極小なものでも極大の世界と一致できるし、
一瞬の事でも永遠を体感できるし、
定まったコースでも常に未知への彷徨(ほうこう)(さまよい)になっている。
そう悟ったからといって急に肚(はら)が据(す)わったり、迷わなくなったりしたということではありません。
迷いや失敗の連続の人生ですが、少しずつ、自分の中の中心ができてきた気もし始めたものでした。
失敗してぶっ壊れても、また自分の中のどこにどんな柱が立ちそうか予感できるような、中心座標が。
草の露一滴にも月影は宿る、全天の星は映る、
ただし、濁ってなければ、です。
素直に受け入れる透明さを以て、さまざまな出会いを味わってみましょう。