(論語34 陽貨第十七 八)
子曰く、
仁を好みて学を好まざれば、その弊や愚なり。
知を好みて学を好まざれば、その弊や蕩なり。
信を好みて学を好まざれば、その弊や賊なり。
直を好みて学を好まざれば、その弊や絞なり。
勇を好みて学を好まざれば、その弊や乱なり。
剛を好みて学を好まざれば、その弊や狂なり。
【大体の意味内容】
先生はおっしゃった。
「仁・知・信・直・勇・剛の六つの美徳は、学によって成就する。
仁(おもいやり)を好んでも、学問を好まなかったら、自分のふるまいを冷静に観察することができないから、つけこまれて騙(だま)されたり、悪逆(あくぎゃく)非道(ひどう)なことにまで利用されたりする、この弊害(へいがい)を愚という。
知識ばかり増やして賢者になったつもりになり学問を好まなかったら、くだらないことまで知っていさえすれば偉くなった気になり人を見下す劣情が止まらなくなる、この弊害を蕩(とう)という。
信念信仰を固く持っても学問を好まないと、己の小信を過信しすぎて、異なった信念信仰を抱く者を傷つけても平気になる、この弊害を賊という。
正直に生きても学問を好まなければ、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に虚言や取り繕いを厳罰に処して人情の機微を無視することになる、この弊害を絞(こう)という。
勇猛果敢に生きても学問を好まなければ、全体の調和を無視して独りよがりな突破力ばかりを行使しようとする、この弊害を乱という。
剛(つよし)くあろうとしても学問を好まなかったら、自分の欠点を反省せず他人を責め立てることばかりに熱中する、この弊害を狂(きちがい)という。」
【お話】
どんな美徳であっても、それだけで絶対の価値があるわけではなく、批判的な吟味(ぎんみ)にさらされなければなりません。それが学問、つまり学(まな)び問(と)うということです。
この文章は、孔子が、やくざ出身の子(し)路(ろ)という弟子に対して、信(しん)直(ちょく)勇(ゆう)剛(ごう)のような武張(ぶば)った徳目ばかりを無批判に信奉(しんぽう)する傾向にあるのを戒(いまし)めているところではありますが、
『老子』の「柔弱(じゅうじゃく)」説を丹念(たんねん)に読んできた私たち自身も、味わいなおしてみるべきところだと思います。
『老子』は直感的に簡潔に論じているので、私のほうで相当の言葉数を補いましたが、
それに比べると孔子のほうがかなり理屈っぽいので、私のほうではあまり言葉数多く補う必要がありませんでした。
老子の様な直感的天才でなくても、学問研究することで物事の真理に到達することは可能ですし、
またそうやって学問研究しなければ、どんな徳目も軽佻(けいちょう)浮薄(ふはく)な独断と偏見によって捻(ね)じ曲げられてしまう危険性があるということです。
『老子』を読んできた後で久しぶりに孔子の『論語』に戻ってみると、なんだかやかましい文章だなあという気もします。
人に人格があるように、その表の人格とは異なったさらに奥深い精神や魂、さらには、祖先たち死者たちの霊界とのかかわり方さえも示すような、「霊(れい)格(かく)」というモノも、私たちにはあるような気がしています。
『史記』という書物を読むと、孔子が、老子に面会してわずかな時間ながら教えを受けた後、老子のことを「あの人は竜のような人だ」と弟子たちに言ったそうです。
おそらくこの「霊格」の違いを思い知らされた、というお話なのだろうと思っています。
またこうして素読プリントを作っていると、いろんな人々の書く文章にも「文格」とでもいうべきものが備わっているのを実感します。
『老子』は、オリジナルは現存せず、書き伝えられているうちに別人の思想や文章も混入しているといわれていますが、確かにそうと感じます。
『老子』の「文格」が強く感じられるものと、「これは怪(あや)しいな、わからないな」と感じられるものもあります。
『老子』の素読プリントは76まで作りましたが、まだあと77~81まであります。
しかしこの最後のクライマックスのはずの諸章が、読んでいて眠くなります。
きちんとした根拠はありませんが、『老子』の「文格」が原形をとどめないほど壊されていると感じましたので、もうやめました。
これこそ「独断と偏見」に過ぎないですが…
今後は『論語』や、その他さまざまな古典の文章を使って素読プリントを作っていきます。
もしリクエストがあれば遠慮(えんりょ)なく言ってください。検討します。