(老子道徳経 下編徳経76)
人の生まるるや柔弱(じゅうじゃく)、
其の死するや堅強なり。
万物草木の生まるるや柔脆(じゅうぜい)、
其の死するや枯槁(ここう)なり。
故に堅強なる者は死の徒にして、
柔弱なるものは生の徒なり。
是を以て兵は強ければ則ち勝たず、
木は強ければ則ち折る。
強大なるは下に処(お)り、
柔弱なるは上に処(お)る。
【大体の意味内容】
人が生まれるときは柔らかで嫋(たお)やかなありさまだが、死んでしまった後の体は堅く強ばってしまう。
これは万物に通じることでもある。
草や樹木も柔らかく脆(もろ)いものとして芽を出し、枯れ干からび、カラカラとなって朽ち果て、死ぬ。
だから、堅く強ばったものは「死徒」つまり死のなかまである。
柔らかで嫋(たお)やかなものは「生徒」すなわち生のなかまである。
それゆえ、たとえば兵力というものは強ければ強いほど木(こ)っ端(ぱ)みじんに粉砕されやすく、
最終的には勝てないものだ。
木も頑丈なものほど、大風にさらされた時には折れて倒れてしまう。
物事はすべて、強大なものほどレベルが低く、柔弱なものほどレベルが高い。
【お話】
「生徒」の反対は「先生」ではなく、「教師」でもなく、「死徒」だったんだ!
ここで初めて知りました。
確かにこの方が合理的で筋の通った二項対立です。
私たち大人は、自分は「生徒」の反対だと考えたらとんでもない阿呆(あほう)なわけです。
これは肝に銘ずべき箴言(しんげん)です。
可能な限りいつまでも「生徒」であり続けた方がよいわけです。
そのためには身体も心も、頭も柔らかでなければならない。
年齢を重ねれば誰しも老化していきますが、そのこと自体は悪いことでもなんでもなく、
むしろ熟練した素晴らしい「生徒」として輝けるでしょう。
好ましくないのは「死徒」化してゆくこと。
身体や心や頭が堅く強ばってゆくと、いずれ木っ端みじんに砕けたり折れたりしてしまう。
これは年齢の少(わか)い高いに関係ないことです。
「大木は倒れてもタンポポは斃(たお)れない」
何かで読んだ名言です。
しなやかに風を受け流すたんぽぽ(ダンデリオン)は、一時(いっとき)倒れてもやがて起き上がって種をつけ風に乗せて飛ばします。
自分自身は踏みにじられてもちぎられても、根は残るから復活します。
そうやって何度でも再生して滅びないのです。
「賽(さい)の河原(かわら)の子どもたち」のように生きること。
そんな心得というか覚悟が必要と思いました。
「賽(さい)の河原(かわら)」とは、幼くして死んでしまった子どもたちが成仏させてもらえずに集められるところ。
そこで石を積んで父母を供養(くよう)する塔を作らされますが、あともう少しで完成、というところで鬼が来て破壊され、永久にやり直しをさせられるという俗説です。
わたしたちも、多少歳月を重ねてくると、自分が何か築き上げたように思い込みがちですが、
実はそう思い込むことが「死徒」化を進行させてしまうのだと思います。
鬼がいなかったら、自分で鬼を呼び寄せてでも、「自分が築き上げたもの」を破壊し、
何度でもゼロからやり直すことが大事なのでしょう。