道なる者は万物の奥なり

(老子道徳経 下編徳経61)

道なる者は万物の奥(おう)なり。
善人の宝なり。
不善人の安んずる所なり。
美言は以て尊を市(か)うべく、美行は以て人に加うべし。
人の不善なるも、何の棄(す)つることかこれ有らん。
古(いにしえ)の此の道を貴(とうと)ぶ所以(ゆえん)の者は、何ぞ。
求むれば以て得られ、罪有るも以て免(まぬがる)ると曰(い)わずや。
故に天下の貴きものと為る。

【大体の意味内容】
「道」は宇宙生成の最奥(さいおう)の原理である。

善い人にとっての宝である。
善くない人にとっても安心して生きながらえる居場所のようなものだ。

美しく飾り立てた言葉を操って、人々からの尊敬を買い集めたり、
美しい行いでさらに自分への利益を加えてゆくこともできる。

(そんな「おためごかし」は見苦しいものだが、それでも良い報(むく)いを得られるのも事実だ。)

だから善くない人であろうとも、どうして見捨てられることがあろうか。

(「道」理とは、そのような取捨選択をせず、万物万人に働きかけるものである。)

昔から「道」が貴ばれてきた理由は何であろうか。

それは、

「求めれば、そのことが原因となって、得ることができ、罪があっても、「道」の働きにおいては免(ゆる)されているから」

と、言えまいか。

(罪を犯せばすぐに死んでしまうということはないからである)

ゆえに、「道」はこの世で最も貴いものと為(な)る。

【お話】
鎌倉時代の高僧「親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)」の有名な「悪人(あくにん)正機説(しょうきせつ)」とはこれが源流だったのだとわかりました。

「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや…」で始まる『歎異抄(たんにしょう)』の冒頭の大意は以下の通り。

「自力で善行(ぜんこう)を積み上げ、他力(たりき)を恃(たの)むことの欠如(けつじょ)した人であっても極楽往生を遂げられるのだから、
ましてや煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)にして他力(たりき)を恃(たの)む悪人である我々が、極楽往生しないわけがない。
慈悲(じひ)深(ぶか)い阿弥陀仏(あみだぶつ)は、むしろこのような救いがたい悪人こそ救ってくださるのだから。」

このかなり理屈っぽい一節も、老子のシンプルな文章を読めばすっきりと腑(ふ)に落ちます。

特に、「道」とは「不善人の安んずる所」とか「求むれば以て得られ、罪有るも以て免る」といった簡潔な文が、かえって力強く響きます。

よく言われるように、「お天道(てんと)さまはすべてのものを等しく照らす」のであって、

こちらの箴言(しんげん)のほうが老子の意をよく継いでいるといえましょう。

「善(よ)い行い」をすれば褒(ほ)められ、「犯罪」を働けば処罰されるというのは、小さな人間たちが行う小さな行いであって、

宇宙の大道(たいどう)から見ればどちらも小さな者たちのうごめきにすぎず、大した違いはない、ということなのでしょう。

こうした大きな視点に立てば、宇宙の根本原理に反しない限りはつつがなく生きられるし、
「道」に反すれば、自ら滅びの道をたどることになると。

「合理」というか、「道理」に沿うか沿わないかが最重要のポイントになるわけです。

といっても、例えばテロのような非道なふるまいが許されるわけでも正当化できるわけでもありません。
それは当然のこととして、

視点を地上的なところから宇宙論的な広がりに転換してみるべきと、

老子は訴えているのだと思います。

武術研究家甲野(こうの)善紀(よしのり)氏の言葉を参考にしてみます。

「逆縁(ぎゃくえん)も、出会いの最高形態である。」

愛しあったり尊敬しあったりするのを「順縁(じゅんえん)」とすれば、

武人同士が命懸けで戦うのは「逆縁」となりますが、

それもまた、互いの全存在をかけた、最高に熱いコミュニケーションである、ということです。

『バガボンド』というマンガの中で、聾唖(ろうあ)の剣士佐々木(ささき)小次郎(こじろう)と、凄腕(すごうで)の武士猪谷(いがや)巨雲(こうん)とが、
斬りあいのさなかに互いを認め合い、惹(ひ)かれあってゆくシーンが印象的でした。

「小次郎、俺たちは、抱きしめるかわりに斬るんだな」

と決着がつく。

ぶつかり合う命が宙空に昇華した瞬間。

何ともすごい絵でした。

「最強の敵は、最高の友」