大国を治むるは

(老子道徳経 下編徳経60)

大国を治むるは、小鮮を烹(に)るが若し。
道を以て天下に莅(のぞ)めば、其の鬼(き)も神(しん)ならず。
其の鬼の神ならざるに非ず、其の神も人を傷(そこな)わず。
其の神の人を傷わざるに非ず、聖人も亦(ま)た人を傷わず。
夫(そ)れ両(ふた)つながら相い傷わず。
故に徳は交(こも)ゝ(ごも)焉(こ)れに帰す。

【大体の意味内容】
大国を統治するというのは、小鮮(こざかな)を烹(に)るようなものだ。
かき回すと形が崩れてしまうので、余計な手を加えずコトコト静かに煮る方がよい味わいが出る。

「道」の理に従って、天下における自分本来の位置を見極め、そこに立って生きよ。
そうすれば、大地の精霊たる「鬼」が人々に霊威をもたらすように、「道」理の徳が、「処」を得た人の内側から湧き出るように、その人を徳(はたら)かせる。

神鳴(かみなり)が天地を突(つ)ん裂(ざ)きこの世に祟(たた)るような暴発はしない。

いや、大地の「鬼」霊が祟り神にならないというだけではない。

「道」理の徳を体現すれば、雷や祟り神であっても、その人を傷(やぶ)ることはできないのだ。

さらに言うと、祟り神が人を傷(そこな)わないというだけではない。

聖人もまた、そのような「道・徳」人を敗(やぶ)ることはできない。

神も聖人も、両者とも「道・徳」人には太刀打ちできない。

そもそも「徳」とは何かと争うようなものではないから、対立交錯しあうものがあっても、それらを丸ごと包み込んで、対立以前の根本道理へと返してしまうよう、働くのである。

【お話】
これまで「聖人」を理想的な存在として語りだしてきていたのに、ここでは神よりもマイナスな存在として扱われ、神はまた神鳴(かみなり)(雷)が原義であるように、本来祟(たた)りを為すマイナスな力として語られています。ただし「聖人」よりはましなものとして。

さらにその「神」よりも良いものとして「鬼」を真っ先に挙げているのが面白いですね。

「鬼」は大地の草木や生き物、岩や土や水などあらゆるものの精霊として、認識されていたようです。

後々(のちのち)の時代には、悪いものの代表のように扱われる鬼も、
老子の時代にはこうした、生命全般を育(はぐく)む者、人々の、死んだ祖先を指す言葉として、尊重されていたようです。

お正月に、「お年玉」をもらいますね。

これはもともと「お年(とし)魂(だま)」で新しい年の魂がやってきて、それが体につくから、すべての日本人が一斉に「年を取る」つまり年齢が一つ上がったそうです。
明治時代以前は「数え」という方法で年齢を加えていました。
最初は、生まれた瞬間で1歳となり、その後は誕生日に年を取るのではなく、正月元旦に「年魂」を獲得してみんな年を取ったらしい。

その「年魂」が宿るモノとして、おもちが考えられていたわけです。

確かに柔らかい丸餅(まるもち)は、魂が形を持ったものとしてぴったりですね。

餅は、もちろん「もち米」という穀物から作られます。

秋に稔(みの)る稲穂の、その穀物が一度稔る期間のことを「稔(とし)」と呼んでいたので、「年魂」はさらに本来は「稔(とし)魂(だま)」だったのでしょう。

古代中国ではこうした精霊たちを「鬼(き)」と呼びならわしていたようです。

私達が食べる様々な穀物や草、野菜、果物、肉、魚などなどには、その者の生命だけでなく、宇宙の「鬼」が宿っている。
宇宙空間に様々な星が生まれ其の星の中であらゆるものが成り立ってきたわけですから、日常の食べ物すべての背後に宇宙の力があるわけです。

「僕らは『鬼蹟(きせき)』でできている」。

そのことに感謝して、何でもおいしく味わい、元気になりましょう!