含徳の厚きは

(老子道徳経下編55)

含徳の厚きは、赤子(せきし)に比す。

蜂蠆虺蛇(ほうたいきだ)も螫(さ)さず、
猛獣も拠(おそ)わず、
攫(かく)鳥(ちょう)も搏(う)たず。

骨弱く筋柔らこうして而(しか)も握ること固し。
終日号(さけ)びて而も嗄(か)れざるは、和の至りなり。

和を知るを常と曰(い)い、
常を知るを明と曰う。

生を益(ま)すを祥と曰い、
心気を使うを強と曰う。

物は壮(さかん)なれば則(すなわ)ち老ゆ。
是を不道と謂う。
不道は早く已(や)む。

【大体の意味内容】
「徳」を内面に含むこと厚い存在は、赤ん坊に譬(たと)えることができる。

なぜか赤ん坊には、蜂やサソリや蝮(まむし)も刺したり咬(か)んだりはしない。
猛獣が襲いかかることもなく、ワシやタカのような猛禽類(もうきんるい)の爪にかけられることもない。

骨は軟弱で筋肉も柔らかいが、そのくせ握る力は驚くほど強い。

一日中泣き叫んでも声が嗄(か)れないのは、かれひとりが暴発しているのではなく、
その場の空気、湿気、温度、風などの環境世界と調和しきっているからだ。

「和」を知ることは、永久不変の「常道」と言い、
その「常」を知ることは、「明智(めいち)」という。

かくして生命力が益々盛んになるのを「祥(しょう)瑞(ずい)」すなわちめでたいしるしと言い、
心が気力をコントロールするのを「強」という。

しかし物事は見かけ上、強壮であるとすぐに老化する。
これを「不道」、永久不変の常道から外れているというものだ。
「不道」徳なものは、早くに滅びてしまう。

【お話】
丸木(まるき)位里(いり)・俊(しゅん)夫妻の連作日本画『原爆の図』(第一部幽霊~第十五部長崎)は、原爆投下後の惨状を描いた執念と祈念の轟(とどろき)とでも呼ぶしかない絵画群ですが、

その中に描かれる赤ん坊たちの姿の多くが、
無垢(むく)無傷(むきず)で美しいことに目を奪われます。

悲惨な中での救いが垣間見(かいまみ)えるようでもあり、
かえって刃物で内臓をかき回されるような怖気(おぞけ)も催(もよお)します。

すでにこと切れて死んでいるには違いないのですが、

生きているか死んでいるかということよりも、
この何事も拒(こば)まず、すべてを受け入れ、やすらいでさえいるかのような小さな存在を、
すさまじい地獄絵図の中にちらちらと潜(ひそ)ませていることが、
実はこの連作の中心テーマなのではないかと…

赤ん坊たちは、誰のことも恨(うら)んだり呪(のろ)ったりしていません。

この子を守れなかった母親の悲しみ、
家族の亡骸(なきがら)を抱えて絶望する人、
恐怖に泣き叫ぶ人、
命を助かろうと顔をゆがめて逃げ惑(まど)う人、
放心(ほうしん)する人…
 


まだ命あるがゆえのさまざまな情念(じょうねん)と裸形(らぎょう)とがむき出しになる。
どれも、人間としての真実の形なのでしょう。

これら群像を観(み)ていると、不思議に生きる意欲がわいてきてしまうのはなぜだろう。
私だけが変な奴(やつ)なのか?

作者である丸木夫妻ではなく、
描かれた亡魂(ぼうこん)たちが、
観(み)る者に咆哮(ほうこう)しているのかもしれません。

「生きろ!」と。