足るを知る者は富む

(老子道徳経 上編道経33)

人を知る者は智なり、自(おのれ)を知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り、自(おのれ)に勝つ者は強し。
足るを知る者は富む。
強(つと)めて行う者は志有り。
其の所を失わざる者は久し。
死して而(しか)も亡(ほろ)びざる者は寿(いのちなが)し。

【大体の意味内容】
他者を知るということは知恵の働きであり、自分を知るということが「明(あき)らめ」の働きである。
(本来、「あきらめ」とは、途中で断念することではなく、極限まで努力探求して、物事を「明(あき)らかにする」ということである)。

腕力や武力などの力があれば、他人にうち勝つこともできるが、それだけでは自分にうち勝つことはできない。

自分にうち勝つことができるものが、本当の強さである。

不足・不満を託(かこ)つことなく、自分がどのような境遇にあろうと、
「身の周りの大宇宙も、自分の身体という小宇宙も、完全無欠で満ち足りている」
と知るものが、本当に豊かな富に恵まれているのだ。

強(つと)めて努力し続ける者には、誰も破壊することができない志が備わっている。

志をもって自分の生き方・在り方を失わない者は、永久不変の命脈を保つ。

たとえ死んでも、その志を受け継いだり、その人を記憶する人々がいる限りは亡(ほろ)んだことにはならず、
永遠不滅の寿命を保つことになる。

【お話】
中3生が修学旅行で行った京都に、「石庭」で有名な竜安寺(りょうあんじ)があります。行きましたか? 

蔵六庵という茶室の入り口近くに「知(ち)足(そく)の蹲踞(つくばい)」という手洗い場があります(写真参照)。

口の字の穴に湛(たた)えられた水で手を清めます。

この「口」の周りに文字が入っているのがわかるでしょう。
どれも「口」を含んだ漢字になっていて、上から右回りに四文字熟語になっています。

「吾唯足知」

すなわち

「吾(われ)唯(ただ)足(た)るを知(し)る」

です。

老子の「足るを知る者は富む」からきていますが、後世、仏教の禅宗思想に取り入れられて

「貧しくても欲しがらず欲張らずに、すでに自分は満ち足りているとわきまえることが本当の富である。
たとえ金持ちでもやたらと不満で欲張る者は、本当は貧者なのだ」

という風に解釈されるようになりました。

それもいいのですが、「道」を追究する老子の思想はもっと気宇(きう)壮大(そうだい)、スケールの大きなものだと思います。

この大宇宙(マクロコスモス)には不足しているものなど何もない、ありとあらゆるもので満ち足りている。
生きとし生けるものはその根本原理たる「道」の働きに即して生命活動(生活)・生命運動(運命)を営んでいる。
私たち一人一人の身体や、どんな小さな生物の一個一個までもがすべて小宇宙(ミクロコスモス)である。
どれもすべてがつながっており、何も欠如(けつじょ)などしていない。
私たちは皆、大宇宙と一体なのだ。
大宇宙の意思によって生かされている。いや大宇宙の意思こそが、自覚していなくとも自分の本当の意思なのだ。
それを知ることが富(とみ)である。

満天の星空の下、体を開いて両手を大きく広げて大宇宙と一体になってみてください。
宇宙からの波動に身体(小宇宙)の中の様々なものが共鳴しだすのを感じるはずです。

自分の身辺近くに何かがなかったとしても、あるところにはあるのですからそれを利用すればいい。
「私物」は少なくても「公共物」は無限にあるし、
それらも実は私のものでもあるには違いないのですから。