(老子道徳経 上編道経17)
大上は下これあるを知るのみ。
其の次は親しみて之を誉(ほ)む。
其の次は之を畏(おそ)る。
其の次は之を侮(あなど)る。
信足らざれば、焉(すなわ)ち信ぜられざることあり。
悠として其れ言を貴(おも)くすれば、功は成り事は遂げられて、
百姓(ひゃくせい)は皆、「我は自然(じねん)なり」と謂(い)わん。
【大体の意味内容】
最高に優れた君主というものは、ことさらに政治を行ったようには見えないから、
下々の民は「そういえば君主がいたっけなあ」と知るだけである。
其の次に良い君主では、さまざまな恵みを施す善政を敷いてくれるから、民はその君主に懐(なつ)いて誉(ほ)めたたえるものだ。
其の次の君主は、規律を重んじて刑罰を苛烈(かれつ)に行うから、民はその君主を畏(おそ)れ敬うことになる。
其の次の君主に対しては、侮(あなど)りあざ笑う。
君主自身に、民を信じる気持ちが足りず、ことさら善政を敷いたり悪政を断行したりすると、かえって民は信頼しなくなるものだ。
君主は悠然(ゆうぜん)とした佇(たたず)まいで、軽率な言動は慎んで貴重なことだけ発言するようにすればよい。
そのほうがかえって人々の仕事は成功し、事業も満足のいくように成し遂(と)げられてゆくものだ。
それでいてあらゆる分野の人民たちは「私は自然に、自らの能力でこうなった」と言うだろう。
【お話】
存在感がなくて、いてもいなくても同じだろといえそうな没個性的な人が責任者なのだけれど、不思議とその組織の成績がよくて、メンバーのだれもが生き生きと自分を表現でき、それぞれの持ち味を発揮している。
そんな風景を時々見ます。
マンガの世界だと、『ドカベン』の初期の設定を真っ先に思い出します。
明訓高校野球部のメンバーは、大打者山田太郎に、小さな巨人里中、悪球打ちの男岩鬼、秘打殿馬、といった、個性的、というよりもアクの強すぎる曲者(くせもの)たちがそれぞれ自分のペースでプレーするのだけれど、
不思議な一体感で強敵チームを次々に倒し、甲子園で連続優勝するというストーリーです。
この野球部の監督の名前は思い出せません。何もせず選手に任せっきりです。
要所要所でちょっとしたアクションを取っていた気がしますが、印象に残っていないので、
この監督についての具体的場面は本当に何も思い出せないのですが、
私の記憶の中ではいつでもベンチに座って酒を飲んでるだけ、みたいな印象です。
ですが、その監督の下で各選手たちがぶつかり合ったりしながらも自主的に苦難を乗り越え、勝ち上がってゆく展開を、ワクワクしながら読んでいたものでした。
私が中学生の頃だったと思います。
その時にも微(かす)かに感じてはいました。案外、こういう監督が、本当の「名監督」なのかもしれない、と。
今『老子』のこのくだりを読んで、改めて思い出しました(細かいことは何も思い出せない、ということも、まさに『老子』に描かれた「下」に該当してます)。
もうひとつ。ダニエル・バレンボイムという指揮者が指揮台に立って演奏された『ボレロ』も強烈な印象をもって思い出されます。
オーケストラの指揮者は誰もがかっこよくタクト(指揮棒)を振り、顔も大げさにしかめたり陶酔(とうすい)したりして、いかにも、我(われ)こそは音楽の達人なり、といったパフォーマンスを取ります。
が、バレンボイム「指揮」の『ボレロ』は全く違っていました。
まるで剣道の「正眼(せいがん)の構え」のようにタクトを下腹の前で両手で持ち、そのままピクリとも動きません。顔もうつむいて目を閉じたまま。
そのままで静かにドラムが「タン、タタタタン、タッタ」と鳴りはじめ、フルートも静かにメロディーを奏(かな)で始めました。
次第にクラリネットやファゴット、オーボエその他の楽器が参加してゆきます。
同じメロディーの繰り返しなのですが、どんどん盛り上がっていきます。
その間、バレンボイムは最初の姿勢のまま本当にピクリともせず、気で指揮をしています。
すべてのメンバーを信じて、それぞれが気でコミュニケーションを取りながら調和(ハーモニー)を保つ、
そうした扇のかなめになっている感じでした。
演奏はどんどん盛り上がりクライマックスを迎えるその時も、指揮者は死のように静かに立っています。
が、気が高揚(こうよう)しているのは目に見えるようによくわかりました。
すべてを破壊するようにして終ったあと、会場そのものが割れたかと思うほど万雷(ばんらい)の拍手が響きました。
皆感動してしまったのです。
何もしない名君(リーダー)。これほどの至難(しなん)の業(わざ)もないでしょうが、確かに理想ですね。