我が子の自立と幸せを願う皆様へ
小・中学生対象『 学修塾ダンデリオン』のページへご来訪くださいまして、ありがとうございます。
本荘雅一(ほんじょうまさかず)と申します。
私はまず、皆様の「思い」をしっかりとうかがい、受けとめたいと願っています。
お子様がこの世に生を享(う)けた時のことは、今もはっきりと思い出されましょう。
その時の慄然(りつぜん)と身を正し、覚悟を迫られ、
万感身を圧して、不思議な力が湧いてきたことは、
忘れようにも忘れられない記憶として、全身に焼き付いていらっしゃることと存じます。
この子がいつか自立独立し、自ら人生を切り拓いて行けるようになるまでは、
なんとしても守り抜きたい。
身も心も健康に育ち、幸せに生きて行けるよう、力になりたい。
そう思わないではいられなかったことでしょう。
そうして今日に至るまでの様々な過程の中で、お子様のまだ小さな心のなかにも、何かしらの夢や希望が芽生え、
親御様の志も具体的な形を伴って、お子様の現在や行く末に、あるべき道筋をつけてあげたいと、
願ってらっしゃることと存じます。
私は、そうしたお子様の夢や希望、保護者さまのお志を、ありのままに受けとめ、
これからもそうした思いが豊かに醸成(じょうせい)され、実現へ向けて力強く踏み出されてゆくよう、
ともに努力させていただきたいと願っております。
すべてを糧にして生きる
今、日本社会は「発展途上」「高度成長」の段階を越えて、確実に、
「成熟社会」の領域へ移行しつつあります。
子どもたちが社会に出るころには、
約半数の人々は現在存在していない職業につくであろうことや、
仕事そのものがロボットにとってかわられるなどと推測されています。
私たち人間は社会の変動に柔軟に対応しつつ、いかに主体的に生きるべきかが今まさに問われているのです。
そうした社会に求められる「人財」は、かつてのような、情報の大量記憶能力や、高速処理能力ではなく、
創造的な情報編集力の持ち主です。
それはつまり、他人を感動させるような判断力やデザイン力をみがこうとし、
そして、
表面的な社交術などではなく真に魂を揺さぶるようなコミュニケーション能力の向上に努める人、といえましょう。
したがって私は、
「知性」の高さと「仁徳」の寛(ひろ)さ深さ、飽くことなく向上しようと努める謙虚さを本来の「勇気」と見て、
「知・仁・勇」の三位一体的発達を目指します。
私自身、生徒たちのくもりない眼の光や真剣さから、学ぶことが多くあります。
生徒たちのおかげで、だんだんと、教師にならせていただいております。
お互いに化学反応し合うことを通じて、地域の知そのものを活性化させてゆけるような、「生涯共育」の現場でありたいと願っています。
学校の成績を上げること。受験校に合格すること。そうした結果を出すことだけが、塾の役割のように思われています。
果たしとそうなのでしょうか。
忘れてはならないのは、不安にさいなまれながらも最後まで戦い切った生徒たちに対して出る結果は、必ず、「正しいもの」であるということです。
もしかりに、事前のイメージとはちがう風景が与えられたとして、
でもそれはその生徒にとってこれから生きていくうえで意味のある、必要な世界なのです。
努力しきった子どもたちは皆、努力の達人・天才になったのですから、
これからも自分を磨き、他人ともたすけあえる役割を果たせます。
そのような境地に達した自分を、これからもさらに鍛錬する心地よさを知るようになります。
「受験」の終わりは、新たな人生の始まりであり、ほんとうに重要なのはそれからです。
そこまで鍛え上げて来た自分を生かすか、そうでないか、それはすべて自分次第です。
まだ受験生ではない子どもたちも同様です。様々な目標へ向けて努力している自分をしっかりと、「今・ここ」で咲かせていってください。
たんぽぽのように、咲いていってください。
「大木は倒れてもタンポポは倒れへん!」
何かで読んで一発で心に刻みついたひとことです。
ご存知の通りたんぽぽはいったん倒れても、綿毛をつけておきあがり、種を飛ばします。
どんなに劣悪な環境でも根を深く強靭に張り、
コンクリートやアスファルトに覆われたところでもちょっとしたすきまがあればそこからしなやかに伸びてゆき、
花を咲かせます。
そしてまた種を育て、風に乗って旅立つ。
地味なくせに繁殖力が強いので、ガーデニング愛好者からは手に負えない最強(最凶)の雑草として忌み嫌われてもいるようですが、そうした負の側面も含めて、私はたんぽぽのようでありたいと、子どものころから願っていました。
塾勤めをするようになってからは、接する児童生徒たちがそのような花であるよう、思いを込めてまいりました。
もちろん嫌われ者にはならないように、が前提ですよ。
塾名の「ダンデリオン」とは、たんぽぽのdandelion(ダンディライオン)に由来しています。
順境も逆境も、「すべてを糧にして生きる」、しなやかで強靭な人になってほしいです。
「学修」とは
学修塾ダンデリオンは次世代的な寺子屋のあり方を追求します。
テストの成績を上げることはもちろんですが、人としての品格や徳性を上げることが大事です。
「学修」とは、
単なる情報処理能力だけではなく、
様々な問題に対して創造的・建設的に取り組み、仁徳を深く豊かなものにするよう、学び修めてゆくことです。
「指導」する側も、完ぺきな人間ではなく、まだまだ修行中の身です。
いっしょに努力精進してまいりましょう!
小・中、全学年混合で自立「学修」します。
互いの真剣な表情を視野に入れながら、自分の課題に取り組みます。
ときには共通の課題について議論しながら解決法を見つけます。
私は「一流の教師」であるよりもまず「超一流のコーチ」となることを目指します。
巡回して質問対応したり、学修の仕方進め方について各自が気づき工夫鍛錬するように働きかけます。
必要に応じてミニ授業も実施。
タブレットを利用し、その場で教材映像を見せることもあります。
総じて、融通(ゆうずう)無碍(むげ)、臨機応変な授業展開となるのです。
授業の前後では『論語』その他、古典の名言名句の素読(そどく)を行い、平易な解説をつけます。
音読することで、授業前に脳が活性化し、ある種の徳育的なメッセージに触れることで、心と体の姿勢を整えます。
(「森T学園」のような「つもり」はございませんのでご安心ください)
また「天声人語」その他の模範的文章の書写(しょしゃ)を推奨します。
コピー機や印刷機の無かった昔は、「音読しながらの書写」が、「読書」でした。
脳科学的にも、これが最高の読書法であると評価されています。
保護者様とのご相談、生徒本人の合意の上で、毎週の課題とします。
小学生の授業内では必ずしもテキストに縛られず、文芸創作や、評論執筆、議論など、
創造的言語活動を推進してもいます。
生徒たちの目が強い光を放ち、自主的な調べ学習や、一見「本筋」と見えるところからの脱線を通じて、
むしろ社会や理科など、科目横断的な学習を行うことにもなるのです。
中学生は定期テストや北辰テストがありますから教科学習中心となりますが、小学生と同様、私はあえて
「カリキュラム」を作るのをやめました。
個別指導だから、ということもありますが、
その生徒に必要な学びは、個人別に違っているだけでなく、
その生徒の旬(しゅん)(10日間)や季節、科目や単元などの進捗状況によって変わってきます。
つい最近まで中1の復習をじっくりする必要のあった中3生が、
ある日突然高校レベルをこなしたり大学入試問題でも対応できてしまったりします。
ほんとうのカリキュラムは、その生徒からにじみ出てくるのです。
生徒の外側に「カリキュラム」や「マニュアル」を作って、それに全生徒を無理やり一律に当てはめようとすることの愚かさを、私はいやというほど思い知らされてきました。
一流の料理人と素人の違いをご存知でしょうか。
材料の量や加工時間まで数字で明示されたレシピにしたがって食材を買い集め指示通りに調理するのが素人。
一流の料理人はレシピなど作らず、市場をめぐってその時に手に入る最高の食材を買い求め、それらを生かすように調理するのだそうです。
どのような現場でも同じことが言えましょう。
育児や教育の現場では何よりもまず子どもを見て、その子から発せられるものを知るべきだと思います。
子ども不在のカリキュラム原理主義からは脱却しましょう。
魂のコミュニケーションを通じて子どもの中の何かが輝き始め、「頭角を現し」てくるのを待ちましょう。
「待てない」大人が多いですが、「待ち」ましょう。
じっとしていることではありません。
精一杯、子どもの命の琴線が鳴るよう、関心を持つのです。
それも立派な、「はたらきかけ」に相違ありません。
つまるところ、本質的で効果的な学習とは、
「知・仁・勇」のすべてをかけた壮大な遊びのことです。
知ること、創ることの楽しさを味わうための学び舎(や)へ、どうぞお越しください!