江海の能く百谷の王たる

(老子道徳経 下編徳経66)
江海(こうかい)の能(よ)く百谷(ひゃっこく)の王たる所以(ゆえん)の者は、
其の善(よ)くこれに下るを以て、故に能く百谷の王たり。
是を以て民に上(かみ)たらんと欲すれば、必ず言を以てこれに下り、
民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以てこれに後(おく)る。
是(ここ)を以て聖人は、上(かみ)に処(お)るも而(しか)も民は重しとせず、
前に処るも而も民は害とせず。
是を以て天下は推(お)すことを楽しんで厭(いと)わず。
その争わざるを以て、故に天下に能く之と争う莫(な)し。

【大体(だいたい)の意味(いみ)内容(ないよう)】
大河や海は、数百以上の谷川が注ぎ込むことで豊かに湛(たた)えられたもので、
いわば「百(ひゃっ)谷(こく)の王」ともいうべき存在である。

それは、いかなる流れよりも最も低くへりくだっているからこそ、すべてを呑(の)み込む「百(ひゃっ)谷(こく)の王」たりうるのである。

もしも人民の上に立つ統治者となりたければ、必ず自分の言動を慎(つつし)んで万人に対してへりくだるべきだ。

人々の先導者となりたければ、必ず自分の振る舞いを慎(つつ)ましくして、万人の殿(しんがり)を務めようとすることだ。

こうすることで、聖人たるものは、人民の上に君臨してはいても、人々はそれを重荷とは思わないでいられる。

リーダーとして先頭に立っていても、人々は彼を邪魔な障碍物(しょうがいぶつ)とは感じない。

こうなると天下万民、すすんで彼を君主として推戴(すいたい)し、その薫陶(くんとう)を受けることを楽しんで嫌がらないのだ。

さらに聖人は、人と争うこともしないから、世界中の人々も彼と争う理由がなくなってしまうのである。

【お話】
「自分は総理大臣だから森羅万象(しんらばんしょう)を担当しているのでありまして…」などとむなしい大言壮語(たいげんそうご)をなさるどこぞの御仁とは全く対極にある話です。

いったい、今の世界においてリーダーの立場にある人々のどれ程が、この「百谷の王」者としての覚悟を以てその任を務めているでしょうか。

そう言える立派な人々もいます。が一国のリーダーである人々に、そのような存在が見当たらないような気がします。

この『老子』で「百谷の王たる所以の者」と書いてあるように、「者」のつく存在に着目してみましょう。

医者、学者、役者、教育者、芸者、武者(むしゃ)、求道者(ぐどうしゃ)、忍者(にんじゃ)、先導者、統治者…

かつて恩師から以下のように教わりました。

「者」のつく彼らはいずれも特殊な職能や霊格を備えた、異郷・異界的な存在とみなされる。
彼らは特別な地位や役割を担う代わりに、この世的な常識にフォローされたり安住したりしていてはいけない存在でもある。
「医者」は、今目の前に、自分の愛する家族と、自分と敵対する者とが瀕死(ひんし)の重傷を負って横たわっていた場合、どちらを優先的に救わなければならないか?
当然、敵のほうだ。
「医者」である限りにおいて、自然な人情や常識に従ってしまってはいけないのだ。
ほかの「者」もすべて同じだ。「者」になった以上、自分は「非常識な」人(にん)非人(ぴにん)、制外者(にんがいもの)として生きる覚悟を決めなければならない。
それができないなら、「教育者」になど、なるな!

「教育者」である恩師から、同じく「教育者」になろうとしていた私たちは厳しく命じられました。

今でも、そんな覚悟を自分は本当にできているか、備わっているか、自問自答し続けています。

ただ少なくとも、師の言葉がずっと呪縛となり杭(くい)となって、心にグサッと刺さっています。

「大臣」とは「大」いなる「臣」と書きます。
つまり「大きな臣(おみ・けらい)」ということで、それこそ老子の言う「百谷の王」である海のような、すべてのものの下位にあって総(すべ)てを呑み込める、器(うつわ)の大きな臣(しん)僕(ぼく)でなければならないはずです。

それでこそ「総理大臣」であるはずです。