学を好は知に近く

授業前の素読(中庸2)「学を好むは知に近く」

学を好むは知に近く、
力行は仁に近く、
恥を知るは勇に近し。

この三者を知れば、則ち身を修むる所以を知る。

身を修むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。

人を治むる所以を知れば、則ち天下国家を治むる所以を知る。

【大体の意味内容】
学を好み学ぶということは、知そのものではないが、知に近づくことである。
力んで修業し続けることは、不器用な行であって仁そのものではないが、仁に近づくことである。
己の未熟さや、犯してしまった罪を恥じることは、勇そのものではないが、勇に近づくことである。

知・仁・勇の三つの徳(はたらき)を知ることは、自分自身の心身を整え修めるための根拠を知るということでもある。
自分自身を修める根拠を知れば、人の生活を充実させ、治めるための根拠を知ることになる。

人の生活を治める根拠を知れば、
則ち、天下国家の泰平を維持し、治めるための根拠を知ることになるのだ。

【お話】

 「知・仁・勇」と言えば「文武両道でなおかつ寛容」な理想的人間像として語られることが多いと思いますが、ここでは「おや?」と思うほど、凡庸・平

凡な人間像で語られています。

 最初の「学」にしても「知」そのものではない文脈ですから、切れ味鋭い知性のイメージで語られているわけではなさそうです。
 未知の世界を切り開いて新しい「知」を発見創造する話ではなく、先人の残した知的遺産を、それこそ地をはいつくばうようにして学び取ってゆく、どち

らかというと鈍くさいイメージなのかもしれません。
 しかしそれこそが、「知」に近づく道だということなのでしょう。

 苦労をいとわず努力し続けて、素晴らしい仕事をされている人たちはよく、「運・鈍・根」を重視する話をされています。
 これを「鈍・根・運」と並べ替えれば、『中庸』文脈の「知・仁・勇」とちょうど対応するように見えます。

 巨大な岩石のような知の体系に、鈍刀を振るって地道に挑んでゆく。けれどそれは、石を切り開こうとするのではなく、石で「砥(と)ぐ」様にして学び続

けること、それが知へ至る道なのである。

 努力しても汗を流してもちっとも成果が上がらない。そうであっても己の力を尽くして、根負けせずに頑張ること。努力することそれ自体が生きがいです

らあること。
そんなメンタルの持ち主なら、勝ち負けにこだわったり、誰かと争って敵対するという概念すらなくなっている。
これほど「仁」に近い存在があろうか。

 もともと弱くて愚かな者として、生きてくる過程では大小さまざまな罪まで犯してきた。
そんな我が身を省みて恥じる心が沸騰してくるなら、それこそが「勇(ゆう)(=湧(ゆう)、涌(ゆう))」すなわち命の深い鉱脈から湧(わ)いてくる岩漿(マ

グマ)である。
自己変革、ひいては世界変革(トランスフォーメーション)をもひき起こすエネルギーとなる。
無自覚で潜在していた自己の本当の生命運動、「運命」が発動する。

 と、こんな声がこの「中庸」の文脈から聞こえてきました