天下に常然あり

(授業前の素読 荘子三十三 駢拇篇第八)
天下に常然あり。
常然なる者は、曲がれる者も鉤(こう)を以てせず、直き者も縄(じょう)を以てせず、円(まる)き者も規(き)を以てせず、方なる者も矩(く)を以てせず、附離(ふり)も膠漆(こうしつ)を以てせず、約束も?(ぼく)策(さく)を以てせず。
故に天下誘然として皆な生ずるも、其の生ずる所以を知らず。
同焉(どうえん)として皆得るも、其の得る所以を知らず。
故に古今は不二にして、虧(か)くべからざるなり。
すなわち仁義、又奚(いずく)んぞ連連として膠漆(こうしつ)?(ぼく)策(さく)の如くにして、
道徳の間(かん)に遊ぶことを為さんや。
天下をして惑わしむ。

【大体の意味内容】
天下には「常然」すなわち恒常不変の自然状態というものがある。
永久不変の自然原理である「常然」は、曲がっているものは鉤で曲げたわけではない。
真っすぐなものは墨縄で直線状にしたわけでもない。
円形のものは規(ぶんまわし)つまりコンパスで円を書いたわけではない。
角のあるものは矩(さしがね)すなわち直角定規で角づけたわけでもない。
くっついてしまっているものも、膠や漆を使ったわけではない。
約めて束ねたものも、?(ひも)や策(なわ)でくくったのではない(みな自然にそうなっているだけだ)。

それゆえに、世界中で様々な物が誘い出されるように次々と生まれてくるのも、どうして生まれてくるのかその理由はわからない。
皆同じように自分という存在を得ているが、その存在理由まではわからない。
したがって、昔と今とは二つに分かれているのではなく常なるもので、それを人の作為(しわざ)で壊すことはできない。
「仁」や「義」といった人間の思想の産物を、言語や文字記号などの膠(にかわ)や漆(うるし)で結びつけ教条化したり、?(ひも)や策(なわ)でくくったりしてはいけない。
そのような思想を道具にして、作為のない「道」やその「徳」の世界に割りこんでいくべきではない。
「仁義」といった小うるさい概念を道徳の世界に持ち込まれても、かえって世界中の人々を混乱させるだけだ。

【お話】
『論語』の中で弟子たちが孔子先生に「仁とは何ですか」と聞いて、孔子が「仁とは~である」と、相手によって使う言葉を変化させて対応している場面がたくさんあります。相手の性格や頭の中の言語体系に合わせて説明の言葉を使い分けているのでしょうが、確かにそのせいで「仁」についての様々な解釈の仕方が生まれてしまい統一的というか、本来の素朴な意味が見えなくもなります。
また、弟子が「仁とはこれこれこういうものでしょうか」と聞いて、孔子か「それは本当の仁ではない、仁とは~」とやり返す場面も多いので、確かに無駄に難しいうるさい議論になってわけがわからなくなってしまうのでしょう。
荘子は、孔子一門や、様々な流派の学者たちが陥(おちい)るそうした側面をからかっているのかもしれません。
みんなが幸せに生きてゆくために、その幸せを壊したり傷つけたりすると感じられることや、そういう「嫌なこと」をしないようにすることも大事なのでしょうが、
まずは感じ取ることが一番なのでしょう。
家族や友達、地域の人々やまだ知らない人たちと関わって生きていく上では、好き嫌いや善悪の感じ方も人それぞれでしょうけれど、
何も感じないという人はいません。常に何か感じながら生命燃焼し続けています。いや、生命燃焼するということが、何かと反応し感じることなのでしょう。
それが「常然」なのかもしれません。
感覚を磨(みが)く努力ならだれでもできますね。豊かに感じ取って、他人の喜びや痛みもわかるようになれば、みんなが幸せに生きる道も見えてくる、そういうことでよいのでしょう。