『片手落ち』どころではない人生を生きる君へ

(『FlyingSeeds』2月号より)
毎年大学入試センター試験(現在「大学入学共通テスト」)の時期になると、一人の受験生を思いだします。
20年ほど前、私は大学受験予備校の現代文の講師をしていました。その年度の最初の授業の時、60名ほどの教室の最前列中央に、彼、S君はいました。
「両手」でカバンからテキスト・ノートを取り出し机の上に並べるその様子に、私は目が釘付けになりました。

「両手」と書きましたが、その「両手」がない! まさに左右両方とも、手首まであって、その上がありません。

「どうやってノートを取るのだろう」

私は大量に板書をする講師として知られていましたから、たくさん書くことを承知の上で、彼もこの講座を取っているはず。ここで急に板書量を減らすのもかえって失礼かと思い、いつも通り大量に板書しながら授業を進めました。

見ると彼は、両手首の先っぽどうしで合掌するようにして鉛筆を持ち、そのまま器用にスピーディにノートを取っています。
おうちの方がしっかり準備してくださっていて、ノートは1ページを3段分割で使えるように線が引いてあり、鉛筆は何本も先がとがった形で削られてある。
事前に「本荘の授業」を受ける対策を取っている!
衝撃に近い感動まで覚えました。

ある時、私自身あまり意識せずに、素材文の中にある「片手落ち」という語を、「これは不適切表現だから『不備』に直してください」と生徒たちに伝えたのですが、授業後の講師控室に、S君が駆け込んできました。
「まったくひどいですよね!『片手落ち』だなんて!」
片手どころか両手のない彼の怒りの炎を見て、ああ自分の境遇を受け入れているようでも、
今の技を駆使して他の生徒以上に強く生きているようでも、
本当は深い切なさに身を焦がしているのだなと、彼が抱えている闇の深さの一端を見た思いがしました。

それからは毎日のように、授業後に講師室に来たS君。カバンから器用にテキストを取り出しページをめくり、「ロゴスとパトスの読み分けが分からない」「人間中心主義がなぜだめなのか」「この選択肢が筆者の命題の『対偶』に当たらないか」など積極的に質問してくれました。

執念が実って見事志望大学に合格した彼は、今もきっとどこかで頑張っているでしょう。
結婚して、子供もいるかな。

少なくとも、他人に希望を持たせていることと、確信しています。